南風原間切(読み)ふえーばるまぎり

日本歴史地名大系 「南風原間切」の解説

南風原間切
ふえーばるまぎり

国場こくば川の上中流域に広がる行政単位。グスク時代の水系単位のひとまとまりの遺跡群が、近世南風原間切の村とよく対応しているという説がある。北は首里、西は真和志まーじ、西から南は豊見城とうみぐすく、南は東風平くちんだ、東は大里うーざとう、北は西原にしばるの各間切に接する。フェーバル間切とよぶ。南風原とは南方を意味し、首里城からみた方角であることから首里王府が名付けた地名と考えられる。里積記によると、首里から宮平なーでーら村の間切番所までの道法は七合五勺(二七町)。南風原の名称は首里城前にあった嘉靖元年(一五二二)四月九日の年紀をもつ真珠湊碑(県立博物館蔵)に「はへはら」と表記され、島添大里・知念・佐敷とともに真玉まだん(現豊見城市)を渡り垣花かちぬはな(現那覇市)に集結する軍勢の名称としてみえる。那覇市垣花かきのはなにある同三三年六月の「やらさもりくすくの碑文」にも「はゑはら」と記される。

慶長一八年(一六一三)一二月一五日に首里王府から摩文仁(親方安恒)に宛行われた知行目録(南島風土記)に「はへ原間切兼城村」とみえる。正保国絵図では「南風原間切はえばらまぎり」の高一千三七五石余。絵図郷村帳には当間切に宮城なーぐしく与那覇ゆなふあ・宮平・兼城かにぐしく本部むとうぶ玉那覇たんなふあ・つかさん・あらかき・てりや・喜屋武ちやん中里なかざとうの一一ヵ村が載る。琉球国高究帳では九ヵ村として合高一千三七五石余、うち田一千二九石余(うち永代荒地九石余)・畠三四六石余。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳では田一千二九石余・畠三四〇石余・桑役五石余。「中山世鑑」巻二によると三山時代で列挙された間切に南風原・西原・真和志の三間切はみえない。そのため三間切は中山の中心を形成する首里三平等に属したとする説がある。順治一七年(一六六〇)七代官制から四代官制に変わり、当間切は首里代官支配から島尻代官支配へ移行(「球陽」尚敬王一六年条)。康熙一三年(一六七四)宮城村と与那覇村が大里間切へ移管される。「球陽」尚敬王三〇年(一七四二)条には間切境の引き直し(間切再編成)によるとされる。この時の大里間切按司地頭は大里王子朝亮(一六七六年摂政)で、墓が大名おおなにある。一六六〇―七〇年代にかけて行われた間切再編により、新垣あらかち(山川村)東風平間切へ移管し、神里かんざとう村が大里間切から移管して、「琉球国由来記」では当間切は兼城・宮平・本部・喜屋武・照屋ていーら津嘉山ちかざん・玉那覇・神里・新川あらかーの九ヵ村から構成されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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