大里間切(読み)うーざとうまぎり

日本歴史地名大系 「大里間切」の解説

大里間切
うーざとうまぎり

沖縄島の南部東側に位置し、北は西原にしばる間切、東は佐敷さしち間切、南は玉城たまぐすく間切・具志頭ぐしちやん間切、西は東風平くちんだ間切・南風原ふえーばる間切と接し、北東側が海に面する。ウーザトゥ間切とよぶ。島尻方一五間切の一。里積記によると首里城から南風原ふえーばる村の間切番所まで一里。絵図郷村帳琉球国高究帳、寛文八年(一六六八)琉球国郷帳正保国絵図には島添大里間切と記載され、振り仮名は琉球国郷帳に「シマゾヱオホサト」、正保国絵図には「シマソエヲホザトマギリ」とある。

絵図郷村帳には当間切に属する下里村・おこく村・つはのこ村(現佐敷町)、はへ原村・まざけな村・わきにや国村・平川ひらかー村・宮城なーぐしく村・ふるけむ村・島袋しまぶく村・んみ村・ぐすく村・中程なかふどう村・平良てーら村・まかび村・いなミね村・さきはる村(現大里村)与那嶺ゆなんみ村・与那原ゆなばる村・大ミたけ村・いたら敷村・上与那原ういーゆなばる(現与那原町)神里かんざとう(現南風原町)、はへつはのこ村・上つはのこ村の二五ヵ村がみえる。正保国絵図では高三千二九石余。琉球国高究帳・琉球国郷帳でも同高で、高究帳では田二千三八九石余(うち六九石余永代荒地)・畠六三九石余。琉球国郷帳では田二千四二九石余・畠五九九石余(うち桑役一六石余)。正保国絵図には首里王城を東に出た島尻方東海道が赤い線で描かれ、南風原間切を抜けて当間切に至り、佐敷間切へと東進する。当間切の「よなはる村」にある一里山は南風原間切の境から一四町のところにある(正保三年絵図帳写)。「琉球国由来記」の頃から大里間切と記される。享保二一年(一七三六)には与那嶺・「はへつはのこ村」・「上つはのこ村」の三ヵ村は「当時無之」とされ、乾隆二年帳によれば神里は南風原間切、新里しんざと小谷うくく津波古つふあぬく(現佐敷町)の三ヵ村は佐敷間切へ出し、玉城間切から稲福いなふく大城うふぐしく目取真みどうるまの三ヵ村を入れ、二三ヵ村となる。康熙一三年(一六七四)に南風原間切から与那覇ゆなふあ・宮城(現南風原町)の二ヵ村を入れ、乾隆七年(一七四二)に同間切に出した(「球陽」尚敬王三〇年条)。なお大里間切のうちとして与古田ゆくた村が「中山伝信録」や「琉球国志略」にみえるが不詳。

間切集成図の青色で塗られた大里間切領域には所属する二一ヵ村、番所・本番所・馬場大里おおざと旧城・大城うふぐしく旧城・「おんたまおかミ山」、御殿うどうん山・親川えーがー(現与那原町)、「なん川原」「ななもり川原」「たつはな瀬」「すむむ瀬」が描かれ、間切の周りは六里二町六分四厘、海方切は西原間切との境は卯下小間右に当たり、佐敷間切との境は卯上小間左に当たる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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