日本歴史地名大系 「厚地村」の解説 厚地村あつちむら 鹿児島県:日置郡郡山町厚地村[現在地名]郡山町厚地郡山村の東、油須木(ゆすき)村・東俣(ひがしまた)村の北に位置し、北境の矢(や)岳、西境の花尾(はなお)山の斜面の山地・丘陵に立地する。南流する川田(かわだ)川とその支流の宮脇(みやわき)川の流域に平野が開ける。集落は山麓に北から岩戸(いわと)・大平(おおひら)・花尾・宮脇・大下(おおしも)・丸山(まるやま)が散在する。岩戸に縄文遺跡がある。〔中世〕満家(みついえ)院に含まれた。厚地山の麓に建保六年(一二一八)大蔵氏が創建したという厚地山(あつちやま)権現(現花尾神社)が鎮座。大蔵氏は加治木氏系図(地誌備考)によれば、承久の乱で没落し、満家院院司職・厚地山権現座主職はともに大隅の豪族税所氏の手に移った(「税所氏系図」地誌備考)。しかし惣地頭島津氏が満家院支配を強め、しだいに税所氏の権限を浸食し、正応元年(一二八八)六月七日、厚地寺巻数用途三貫文を税所氏が島津氏に支払うという条件ほかで和与している(「税所篤秀和与状」比志島文書)。 厚地村あつちむら 鹿児島県:川辺郡知覧町厚地村[現在地名]知覧町厚地郡(こおり)村の北に位置し、麓(ふもと)川支流の厚地川が西流する。中世は知覧院に属した。建武二年(一三三五)二月日の指宿成栄軍忠状写(指宿文書)、延元二年(一三三七)三月一七日の揖宿郡合戦討死手負注進状案(同文書)によると、揖宿郡司指宿氏の「親類」として厚地八郎入道善心・同子息孫八忠継の名が知られ、当地を名字の地とした知覧郡司の一族と推定される。「三州御治世要覧」によると、京竿(文禄検地)の節に郡村に合併し、のち分村したという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by