友江村(読み)ともえむら

日本歴史地名大系 「友江村」の解説

友江村
ともえむら

[現在地名]鶴岡市友江・友江町・大山おおやま一―三丁目

大山村の東、大山川の西岸にある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ高六一七石余、支配領主の変遷は砂押すなおし村と同じ。寛永元年庄内高辻帳では高六〇一石余、正保郷帳では大山村に含まれる。天明八年(一七八八)の村明細帳(鶴岡市郷土資料館蔵)では田五一五石余・畑七八石余・屋敷八石余、家数二六・人数一一五。慶応元年(一八六五)皆済一紙(「諸事御用止」同館蔵)では高六〇二石余、うち畑高八六石余、免四ツ二分八厘。

友江村
ともえむら

[現在地名]大野市友江

清滝きよたき川右岸にあり、北東堂本どうもと村、南東中保なかほ村。村名は寛永一九年(一六四二)一二月の田地売渡証文(野尻喜平治家文書)にみえる。正保郷帳によれば田方五二一石余・畠方二八石余。年貢率は享保六年(一七二一)以降享和三年(一八〇三)まで、毛付高に対し三ツ八分から四ツの間であった(「友江村引米覚」鈴木家文書)。初め福井藩領、寛永元年以降大野藩領。

村では宝永元年(一七〇四)八月陰木伐採に関する村定をつくり(加藤家文書)、また宝永年間に定めた田畑作物盗取り防止の規定を、寛政元年(一七八九)改めて惣百姓三五名が連署して定めている(同文書)用水菖蒲池しようぶいけ村・中保村との共用で、下用水と上用水があった。

友江村
ともえむら

[現在地名]大垣市友江

杭瀬くいせ川左岸、大垣輪中の南部に位置し、北は外花とばな村。友部とも記す。暦応二年(一三三九)二月一八日の足利直義下文(土岐文書)に「美濃国多藝庄内支江・吉田地頭職事」とみえ、土岐頼貞から甥の土岐光賢に地頭職が譲られている。支江は友江の誤記と考えられる。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳友部村とみえ、村高三二六石、多藝たぎ郡に属する。元和二年(一六一六)の村高領知改帳には「ともへ村」と記される。正保郷帳には友江村とみえ、安八郡に属し、田高一三八石余・畑高六三石余(岩瀬文庫本正保郷帳では高一八二石余)、ほかに小物成米として野年貢二石余がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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