江戸時代、伊藤仁斎(じんさい)が京都・堀川下立売(しもたちうり)に開いた儒学の私塾。堀川学校ともいう。1662年(寛文2)創立。商人出身で古学を講ずる伊藤仁斎・東涯(とうがい)父子のもとに、多くの公卿(くぎょう)、医者、富商らが参集。『論語』『孟子(もうし)』『中庸』を中心とする聖賢の古典の徹底的究明によって、自らの道徳の完成を目ざした。同志、門弟が茶菓を持ち寄り、温かい雰囲気のなかで、研究会や講義によって学習が行われ、独自の塾風が養われ、多くの人材が輩出した。為政者に対する批判はしないが、理念的に、幕府御用の朱子学派を批判し、幕藩支配を根本的に否定する主張を含む。
[木槻哲夫]
『加藤仁平著『伊藤仁斎の学問と教育』(1940・目黒書店)』▽『吉川幸次郎・清水茂編『日本思想大系33 伊藤仁斎・伊藤東涯』(1971・岩波書店)』▽『天理図書館編・刊『古義堂文庫目録』(1956)』
堀川塾とも。江戸中期,伊藤仁斎の創設した家塾。明治期まで存続。1662年(寛文2)京都近衛堀川の自宅に家塾を開いて古学を唱導。経義文章より徳性を重視し,武士・町人・農民など諸階層の門人が集まり,宮家や公卿への進講もあった。同志会・私試制義(ししせいぎ)会・訳文会などの過程を設け,相互に人格を尊重する教育であった。1705年(宝永2)長男東涯(とうがい)が継ぎ,その没後は末弟伊藤蘭嵎(らんぐう)。以後宗家は東所・東里(とうり)・東峰・輶斎(ゆうさい)が継いだ。仁斎以下歴代塾主の著述・蔵書・門人帳などが伝わり,現在天理図書館に収蔵。所在地は京都市上京区東堀川通出水下ル(でみずさがる)。古義堂跡と書庫が国史跡。
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…同時に生涯をかけて完成に努めた主著《三書古義》(《論語古義》《孟子古義》《中庸発揮》)を起草しはじめる。 仁斎の家塾と学説を古義堂,古義学(仁斎学)と呼ぶのは,仁斎が朱子の注釈を排除して,直接《論語》《孟子》の本文を読解し聖人の原義を求めよと主張するためである。古義学は道徳の基準を人情におくなど元禄期町人文化を代表する側面をもつので,京都を中心に全国に広がった。…
…古くから運河として利用され,丹波から桂川へと流された材木は堀川をさかのぼって五条付近まで運ばれ,中世には材木市が立ち,商人が集住した。堀川沿いには江戸時代にも材木商が多く,儒者伊藤仁斎の生家は材木商であったと伝え,堀川学派の古義堂も堀川下立売にあった。近世後期には川沿いに染色業も発達する。…
※「古義堂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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