古道村(読み)ふるみちむら

日本歴史地名大系 「古道村」の解説

古道村
ふるみちむら

[現在地名]都路村古道

都路村の東部、字下道しもどううち以東の古道川・山口やまぐち川・みなみ川・高瀬たかせ川流域にあたり、三郡さんぐん森・大鷹鳥谷おおたかとや山・つぶり山などに囲まれた高原地域。村名は海道(浜通り)から仙道(中通り)へ抜ける、都への貢進の古道とよばれていたことに由来するとの説がある(都路村史)。縄文時代早期から平安時代にかけての一六遺跡がある。高瀬川上流場々ばば地区の場々A、南川上流の頭ノ巣地区の遠上前おじようまえA―D、大久保おおくぼ地区の蒲生河原がもうがわら上屋敷かみやしきA―B・細田沢ほそたさわ不動前ふどうまえ福谷井ふくがいA―B、山口川上流の石橋いしばし地区の石橋、上山口地区の山口A―F・山口上A―Bなど河川上流の標高五〇〇メートル以上の高地に集中。とくに場々A遺跡では縄文時代早期の石鏃、遠上前B遺跡では竪穴住居跡七棟、山口E遺跡では竪穴住居跡のほか土壙一五〇基を確認。

馬洗戸うまあらいど地区には大滝根おおたきね山に籠る蝦夷討伐の途次、坂上田村麻呂が軍を休ませ馬を洗わせたとの伝承がある。南地区の字舘腰たてこしはもとタテノコシといい、舘越・舘の越とも記す。山口川と南川の合流点付近の国道三九九号沿いの低丘陵の先端部に位置し、土塁や空堀の遺構があり、古道館ともいわれる。「岩井沢小学校郷土誌」によれば元亀元年(一五七〇)北畠左中将勝元が築き、天正九年(一五八一)岩城常隆に攻略されたとある。下山口地区の字杉内すぎうちにも山口監物の拠ったと伝える館跡がある(都路村史)。なお下道ノ内・泉岳段せんがくだん戸屋とや悪久戸前あくどまえ行屋渕ぎようやぶち下戸げど番坊ばんぼう寺坂てらさか重郎内じゆうろううちたて中屋敷なかやしき剣屋敷けんやしき・馬洗戸・熊蔵屋敷くまぞうやしき仁蔵屋敷にぞうやしきなどの地名は中世までに成立したと推定される。合子ごうし地区には合子落ごうしおちという古名があり、宗像家系図(同書)によれば、天正一八年祖宗像和泉守信利が駒板こまいた(現郡山市)を捨てて字荻田おぎたに落延びたことに由来するという。また大久保地区の白石家系図(同書)によれば、祖白石六助は関田せきた(現いわき市)を逃れて小阿久戸こあくどに移住したという。

古道村
ふるみちむら

[現在地名]芦北町古石ふるいし

湯浦ゆのうら川上流にあり、下流古田ふるた村、上流に石間伏いしまぶち村がある。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に村名がある。湯浦手永に属し、延宝三年(一六七五)の葦北郡湯浦手永小村限御帳(芦北町誌)によれば、男女一八、うち女六、一五歳から六〇歳までの男五人のうちに一人の郡筒を含み、竈数二、馬一とある。

古道村
ふるみちむら

[現在地名]美和町古道

南は冨塚とみつか村に接する。「寛文覚書」に戸数三八、人数二〇四とある。「徇行記」によれば、概高六四〇石余のすべてが藩士一一人の給知。田は三〇町三反六畝余、畑は九町九反五畝余。農屋はふたでら渠の堤南に建並んでいた。用悪水河道の変遷について「二ツ寺井筋、寛永十七辰年用水川二間堀割、其後正保四亥年悪水川三間切広ニナリ、復亦寛政八辰年ニ至リ、上村願ヒニ因テ大切戸・小切戸筋二川築埋ニシ、古川ヲ用ヒ五間切広ケ御普請有之、其節福田川ト名目改メ、其ツフレ地証文引トナル」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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