日本歴史地名大系 「吉富郷・関戸郷」の解説
吉富郷・関戸郷
よしとみごう・せきどごう
〔鎌倉時代〕
治承四年(一一八〇)一二月一四日、源頼朝が武蔵国内の本知行地主職の安堵を行った時(吾妻鏡)、小山田(稲毛)重成は平太弘貞の所領であった「多西郡内吉富并一宮蓮光寺等」をも自らの所領の内に書加え安堵を受けていたらしい。ところが翌年四月二〇日、平太弘貞の申状により小山田重成の虚偽が露顕し、吉富郷・
〔鶴岡社領〕
康暦元年(一三七九)一一月三〇日、鎌倉公方足利氏満は鎌倉府直轄領としていた宇都宮弾正少弼(芳賀高貞)女子跡「
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報