吉富郷・関戸郷(読み)よしとみごう・せきどごう

日本歴史地名大系 「吉富郷・関戸郷」の解説

吉富郷・関戸郷
よしとみごう・せきどごう

現多摩市・日野市東端部・府中市南端部に比定される。多摩川を挟んで武蔵国衙があった府中に接し、武蔵国衙と相模国を結ぶ鎌倉街道上道の渡河点に位置する交通の要衝であった。さらに、多摩川沿いには古川崎街道に相当すると考えられる街道が東西に走っている。

〔鎌倉時代〕

治承四年(一一八〇)一二月一四日、源頼朝が武蔵国内の本知行地主職の安堵を行った時(吾妻鏡)小山田(稲毛)重成は平太弘貞の所領であった「多西郡内吉富并一宮蓮光寺等」をも自らの所領の内に書加え安堵を受けていたらしい。ところが翌年四月二〇日、平太弘貞の申状により小山田重成の虚偽が露顕し、吉富郷・一宮いちのみや蓮光寺れんこうじは平太弘貞に返付され、重成は怖畏のため籠居したという(同書養和元年四月二〇日条)。その後天野遠景が吉富郷の地頭になっていた徴証がある(「天野氏系図」萩藩閥閲録)。元久二年(一二〇五)六月二三日の稲毛重成誅殺(吾妻鏡)ののち、重成の舎弟由井七郎が天野遠景のもとに出頭してきたという話が伝わっており(古事談)畠山重忠・稲毛重成誅殺の戦後処理過程で吉富郷などを得ていた可能性がある。

〔鶴岡社領〕

康暦元年(一三七九)一一月三〇日、鎌倉公方足利氏満は鎌倉府直轄領としていた宇都宮弾正少弼(芳賀高貞)女子跡「多東(ママ)郡吉富郷号関戸」を鎌倉鶴岡八幡宮に預け置いた(「二階堂行詮奉書写」相州文書)。宇都宮氏が吉富郷を所領とした契機は明らかではないが、上杉憲顕の鎌倉府復帰とともに鎌倉府と宇都宮氏の関係は悪化し、貞治二年(一三六三)の苦林野・岩殿山合戦や応安元年(一三六八)の平一揆などで宇都宮氏が敗北する過程で鎌倉府の直轄領になったものと考えられる。なおこの時に初めて吉富郷の別称として関戸の称が使われている。永徳三年(一三八三)九月一四日、氏満は鶴岡八幡宮上宮・下宮の本地供護摩料所として改めて吉富郷を寄進した(「足利氏満寄進状」鶴岡八幡宮文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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