出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
南北朝時代の武将。上杉憲房(のりふさ)の子で、山内(やまのうち)上杉氏をたてる。足利尊氏(あしかがたかうじ)・直義(ただよし)と従兄弟(いとこ)にあたる関係で、足利氏のなかで重きをなし、南北朝内乱で活躍した。1336年(延元1・建武3)父憲房の戦死後家督を継ぎ、民部大輔(みんぶたいゆう)、上野(こうずけ)守護となり、ここを基盤に越後(えちご)、下野(しもつけ)方面に出動した。越後守護を兼帯し、家臣の長尾(ながお)氏を上野、越後の守護代に据えた。50年(正平5・観応1)に足利尊氏・直義兄弟の争い(観応(かんのう)の擾乱(じょうらん))が起こると、直義党として武蔵野(むさしの)合戦などに奮闘したが敗北。その後、信濃(しなの)、越後、上野などの国境地帯で10年間、反尊氏方としてゲリラ的活動をしていた。尊氏の死後、鎌倉公方(くぼう)足利基氏(もとうじ)は、61年(正平16・康安1)に関東管領(かんれい)畠山(はたけやま)国清を追放し、63年(正平18・貞治2)憲顕を迎えてその地位に据え、上野、越後の守護に復させた。以来、基氏、氏満(うじみつ)に仕えて鎌倉府の基礎をつくった。伊豆奈古屋(なこや)(静岡県伊豆の国市)に国清寺を建て、ここに葬られた。法名国清寺桂山道昌。
[峰岸純夫]
南北朝時代の武将。憲房の子。山内上杉氏の祖。建武政権崩壊後,足利尊氏・直義に従って各地を転戦。関東に下向し1336年(延元1・建武3)上野国守護となる。暦応年間(1338-42)以後,高師冬とともに鎌倉府の足利義詮,ついで基氏を補佐して〈両管領〉と呼ばれ,鎌倉府の基礎を固める。この間に越後守護をも兼ねた。50年(正平5・観応1)観応の擾乱(じようらん)が勃発すると,直義方として,尊氏側に属す高師冬を鎌倉から追い,実子の上杉能憲をして甲斐須沢城に攻め殺させた。憲顕は直義を鎌倉に迎え,尊氏方と雌雄を決しようとしたが,尊氏によって直義は殺害され,憲顕も両守護職を没収された。10年にわたる雌伏ののち62年(正平17・貞治1)基氏は憲顕を迎えて,両守護に還補し,関東管領に再任した。これを不満とする宇都宮氏綱らが背いたがこれを平定。68年秋新田義宗らが蜂起したが,この鎮圧中に没した。
執筆者:伊藤 喜良
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(山田邦明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…足利氏との婚姻関係が生じ,とくに重房の孫清子が足利貞氏に嫁して尊氏・直義を生んだことから,一族は高(こう)氏と並ぶ重臣として遇された。南北朝内乱の初期には,上杉憲顕が足利直義の信任を得て幕府の関東支配の基礎をきずいた。観応の擾乱(じようらん)後の1363年(正平18∥貞治2)に憲顕がふたたび関東管領に就任して以降,上杉氏の一族が代々関東管領を世襲した。…
※「上杉憲顕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新