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〈ほりこしくぼう〉が慣用読みであるが,地名は〈ほりごえ〉である。堀越御所ともいう。関東は鎌倉公方足利成氏が1454年(享徳3)に関東管領上杉憲忠を謀殺したことで内乱に突入し,成氏自身は下総古河(こが)に御座を構え古河公方と尊称されるようになった。上杉氏は,成氏勢力に対抗するために幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めた。そこで,幕府は将軍義政の弟足利政知を東下せしめたが,鎌倉に入ることができず,伊豆の堀越に御所を構えた。これを堀越公方という。政知は,正式な鎌倉公方として幕府から諸権限を付与されたが,十分にそれを発揮することができず,その権限は伊豆や相模に及ぶにすぎなかった。政知は1491年(延徳3)死去し,その跡を子の茶々丸が継いだが,一族で内訌が生じ,その機をとらえた駿河の伊勢宗瑞(北条早雲)の侵入を招き,その結果茶々丸は自害し,堀越公方家は滅亡した。
執筆者:佐藤 博信
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室町幕府の東国支配機関。堀越御所(ごしょ)、豆州(ずしゅう)様ともいう。従来「ほりこし」とされてきたが、地名は「ほりごえ」であり、「ほりごえくぼう」が正しい。鎌倉公方足利成氏(あしかがしげうじ)が幕府に背き古河(こが)へ移ると、将軍足利義政(よしまさ)は新公方として弟の政知(まさとも)を1458年(長禄2)に関東へ下向させて、成氏の征伐を命じた。政知は伊豆(いず)国堀越(静岡県伊豆の国市)に本拠を置き、幕府の力を後ろ盾にして成氏に対抗したが、成氏とこれを支持する北関東の領主らを制圧することはできなかった。政知の死後、家督は子の茶々丸が継いだが、1491年(延徳3)北条早雲(そううん)によって滅ぼされた(一説に1493年ともいう)。
[長塚 孝]
「ほりこしくぼう」とも。室町中期~戦国期に伊豆国田方郡北条の堀越(現,静岡県伊豆の国市)を居所とした,関東公方足利政知(まさとも)のこと。政知は8代将軍義政の弟で,京都天竜寺香厳院の院主となっていたが,鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害して下総国古河(こが)(現,茨城県古河市)に走ったため,義政の命で還俗,成氏に対抗して関東の主となるため,1458年(長禄2)に東下。しかし鎌倉には入れず,堀越を居所とした。政知に先行して京都から下った渋川義鏡(よしかね)や上杉教朝(のりとも)・政憲父子が補佐にあたった。しかし関東支配の任を負って送り込まれたものの,独自の基盤を築くことはできず,しだいに衰退し,91年(延徳3)死去。その跡を継いだ子の茶々丸は北条早雲に殺され,堀越公方は滅亡。
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…そこで,義政の命令で還俗し,幕府から派遣されたのが政知であった。幕府・上杉方の中心であったが,鎌倉に入部しえず伊豆の堀越(ほりごえ)にとどまり,堀越公方と呼ばれた。鎌倉公方の諸権限を継承したが,実質的な支配は上杉氏にゆだねられ,名目的な存在にすぎなかった。…
…幕府が持氏の子成氏と憲実の子憲忠の争いを鎮定するため今川範忠を鎌倉へ派遣したため,成氏は古河へ移り古河公方(こがくぼう)と称し幕府に反抗した。将軍義政は僧であった政知を還俗させて,鎌倉に派遣して関東の安定を図ろうとしたが,政知は関東に入ることができず韮山堀越(ほりごえ)に落ち着き堀越公方と称した。91年(延徳3)沼津興国寺城主であった北条早雲は堀越公方を倒し,たちまち伊豆国を奪い韮山城を根拠地とし,のち小田原へ進出する。…
…鎌倉公方は,ここに滅んだ。
[古河公方,堀越公方]
その後,鎌倉公方は,結城合戦をへて49年(宝徳1)に持氏の遺子成氏によって復活をみたが,成氏は54年(享徳3)12月関東管領上杉憲忠を謀殺したことで,幕府から追討を受ける身となり(享徳の乱),下総古河に居を移し,古河公方となった。幕府は,成氏に代えて新たに鎌倉公方に足利政知を任じ,軍事統率権や土地安堵権などの諸権限を授けて鎌倉に下向せしめたが,鎌倉に入部することができず伊豆堀越(ほりごえ)にとどまった。…
…しかし東国の武士層は必ずしも政知に服さず,伊豆の堀越に居を構え,鎌倉に入ることはできなかった。以後成氏は古河公方,政知は堀越(ほりごえ)公方と呼ばれた。関東管領上杉房顕らは堀越公方政知を奉じて成氏としばしば合戦に及んだが,房顕は66年(文正1)没し,越後守護上杉房定の子顕定がその跡を継いだ。…
…これは北条氏の幕府内部での勢力が強大になり,得宗およびその御内人(みうちびと)と御家人との摩擦が強まる過程で,得宗や〈御内〉と将軍とを区別する意図で,多少とも意識的に使われた形跡があり,おそらく安達泰盛の関与があったものと推定される。しかしこののち,鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府を通じて将軍を公方とよぶ用法が定着し,さらに鎌倉府の足利基氏の子孫も関東公方,鎌倉公方,さらにその分裂後は古河公方,堀越公方といわれ,鎌倉から奥州に下ったその一族も稲村公方,篠川公方とよばれた。 一方これとは別に,鎌倉後期以降,荘園・公領の下地に対する寺社本所,あるいは地頭の一円支配が進行するとともに,そうした一円化した荘園・公領の支配者を公方とよぶ用例が急速に増加しはじめる。…
…一方,成氏の兵により市川城を追われた実胤は武蔵国石浜城(東京都台東区),自胤は赤塚城(東京都板橋区)に拠り,実胤が出家したため,自胤が武蔵千葉介を継承,康胤の系統に継承された下総千葉介と対立した。57年(長禄1)将軍足利義政は成氏に対抗させるため弟政知を伊豆堀越に下向させ,堀越公方とした。成氏はこれを滅ぼそうとして失敗し,長尾景信に古河城を落とされた。…
…幕府は58年(長禄2)反成氏戦線の最終的権威づけとして,足利政知を伊豆に下した。これが堀越公方である。やがて82年(文明14)11月関東は一時小康状態を得るが,扇谷・山内両上杉氏の内紛や,それに乗じた北条早雲の小田原攻略によって再び収拾のつかない混乱に陥った。…
※「堀越公方」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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