吉岡庄(読み)よしおかのしよう

日本歴史地名大系 「吉岡庄」の解説

吉岡庄
よしおかのしよう

中世に存在した桑村くわむら郡内の荘園。その位置は近世において吉岡郷とよばれた地域内で、上市かみいち国安くにやす石延いしのべ村付近にあったと推定される。

その初見は「三島宮御鎮座本縁」(大山祇神社蔵)によると元久元年(一二〇四)で、幕府から吉岡庄を給与されたので、神社では大祝おおはふり政所を創設した旨を述べている。正応四年(一二九一)三月八日付の実報寺文書によると「伊予国吉岡荘実報寺小破時修理田事 合三町内 一所弐町 守重(名カ)田 一所壱町 頼宗(名カ)田」とあり、吉岡庄のうち三町が同寺の修理田に寄進されている。

翌々六年六月一七日付の宛行状(大山積神社文書)によると「下 伊与国吉岡荘内念太郎給分弐反土器免弐反小組田壱反事 大野右衛門尉永盛所宛給也」とあり、この文書について「三島宮御鎮座本縁」の解説文によると、吉岡荘のうち五反の地を大山祇おおやまずみ神社領として大野永盛に給与されている。


吉岡庄
よしおかのしよう

湖山こやま川上流(通称長柄川)域の吉岡谷とその周辺を領域としたとみられる。吉岡保と記す史料もある。年月日未詳の青蓮院門跡領覚書断簡写(華頂要略)に「因幡国吉岡庄」とみえ、応永六年(一三九九)一〇月から一二月にかけての応永の乱の際、祈祷を行った賞として足利義満から青蓮院門跡に寄進され、一部は義満から京都鞍馬寺へ寄進されている。乱終結直後の同七年一月二四日、守護山名氏家は吉岡保湯河内ゆのごうち日置上ひおきかみ(現青谷町)内の地を鞍馬寺雑掌に渡すよう幕府の命令を守護代土屋次郎に伝えており(「山名氏家遵行状」同書)、青蓮院門跡および鞍馬寺への寄進は同時に行われたと考えられる。当庄はもとは吉岡保であったとも推定されるが未詳。前掲覚書断簡写に近年吉岡駿河入道が押領と記し、また三月二九日に吉岡七郎元経からまず一千五〇〇疋を進納するという状があったとも記すが、いずれも年代は不明。


吉岡庄
よしおかのしよう

「兵範記」保元二年(一一五七)三月二九日条所収の同月二五日付太政官符に「越中国一処 吉岡庄」とみえ、保元の乱で敗死した故左大臣(藤原頼長)領であったが、没収されて後白河天皇の後院領とされた。のち長寛二年(一一六四)に後白河院によって創建された京都蓮華王院(三十三間堂)に寄進されたと考えられる。文治三年(一一八七)二月後白河院は源頼朝に当庄地頭成佐の不法が度重なっているとして地頭の改替を要求した。


吉岡庄
よしおかのしよう

現瀬戸町北東部の万富まんとみ一帯から北部地域に比定され、明治二二年(一八八九)吉岡村が成立している。奈良東大寺の造営料国であった備前国の建仁三年(一二〇三)麦惣散用帳(東大史料編纂所蔵)に「吉岡郷」とみえ、重源弟子の官阿弥陀仏が収納責任にあたり、真依納が納入者で四二石余のうち三六石余津納、五石余が郷未進とある。また同帳には「吉岡御瓦□□二百二十七石」余とあり、郷内で東大寺造営用の瓦が大量に焼かれたことが知られ、万富には国指定史跡の東大寺瓦窯跡が残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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