「鞍馬寺史」は延暦一五年(七九六)造東寺長官藤原伊勢人が私寺として創建した寺という。「鞍馬蓋寺縁起」では宝亀元年(七七〇)一月四日、鑑真の弟子鑑禎が夢で山城国北方の霊地を知り、宝鞍の白馬に導かれて赴いた。その夜鬼が現れたが毘沙門天により災いを逃れたので、鑑禎は毘沙門天像を彫し草堂を結んだのが当寺の起りという。なお同縁起は、伊勢人が観音を安置する一堂の地を求めていたところ夢に
寛平年間(八八九―八九八)京都東寺(教王護国寺)十禅師の逢延が、伊勢人の孫峰直の帰依をうけて鞍馬寺根本別当となってより(拾遺往生伝)、真言宗の公寺となったといわれ、天永年間(一一一〇―一三)第四六代天台座主忠尋が来山したのを機に天台宗に改めたという。以来近江延暦寺には門跡相承の職として鞍馬寺検校職がもうけられ(寛喜元年八月一一日「鞍馬寺検校職官符」華頂要略補遺)、鞍馬寺は山門(延暦寺)の末寺となった。治承二年(一一七八)四月八日には、延暦寺衆徒と鞍馬寺僧二〇〇人余りが
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京都市左京区鞍馬本町、鞍馬山中腹にある鞍馬弘教(こうきょう)の総本山。松尾山(しょうびざん)金剛寿命院(こんごうじゅみょういん)と号する。開山当時は律宗、その後は真言宗であったが保安(ほうあん)年間(1120~24)には青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)の支配下となって天台宗に属した。幕末には一時、日光輪王寺(りんのうじ)門跡の支配下となったが、のち青蓮院門跡下に復し、1949年(昭和24)天台宗を離脱して単立寺院となった。『鞍馬蓋寺(がいじ)縁起』によると、鑑真(がんじん)和上の弟子鑑禎上人(がんていしょうにん)が770年(宝亀1)に霊夢で白馬に導かれて鞍馬山に至り、毘沙門天(びしゃもんてん)像を祀(まつ)る草庵(そうあん)を結んだのが草創という。さらに、796年(延暦15)造東寺長官の藤原伊勢人(いせんど)が観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)を祀る霊地を求めていたところ、貴船明神(きぶねみょうじん)の導きで鞍馬山に至り、毘沙門天と観世音菩薩をあわせ祀ったと伝える。奥の院には魔王尊像(サナトキクマラ、伝狩野元信(かのうもとのぶ)作、秘仏)が祀られており、同寺では毘沙門天像、観音像とともに三身一体の本尊とし、尊天(そんてん)と称している。寛平(かんぴょう)年間(889~898)には東寺の峯延(ぶえん)が入山して根本別当となり、寺院の形容を整えた。平安時代には良忍(りょうにん)や重怡(じゅうい)が参籠(さんろう)して同寺を融通念仏(ゆうずうねんぶつ)の道場となした。浄土教信仰の普及と毘沙門天の現世利益(りやく)の福徳を願う信仰が重なり、鞍馬寺は公家(くげ)、武家、庶民の信仰を集める一方、多くの僧兵が武力を備え、南北朝の内乱や賀茂社との間に争いを起こしている。江戸時代には幕府との関係も深く、十院九坊の寺院組織を形成し、また、「鞍馬の願人(がんにん)」「鞍馬講」などにより庶民の信仰が広まった。
鞍馬寺に関する伝説は多く、牛若丸(うしわかまる)(源義経(よしつね))、鞍馬天狗(てんぐ)などはよく知られており、山内には牛若丸の修行にまつわる史跡がある。また、峯延が修行中に現れた大蛇を仏法の力で退治したという故事にちなむ竹伐(たけき)り会式(えしき)(6月20日)や、宮中の古式による節分追儺(ついな)式(2月節分)、1717年(享保2)に再興された如法写経会(にょほうしゃきょうえ)(8月1~3日)、ウエサク祭(5月満月の夜)など年中行事も多い。なお境内にある由岐(ゆき)神社祭礼は「鞍馬の火祭」として名高い。
たびたびの火災により堂舎を焼失、現在の本殿、多宝塔などは近年再建されたものである。寺宝の木造毘沙門天三尊像、鞍馬寺経塚遺物200余点が国宝に、木造聖観音立像、木造兜跋(とばつ)毘沙門天像、紙本墨書鞍馬寺文書、銅灯籠、鍍金三鈷(ときんさんこ)柄剣などが国重要文化財に指定されている。なお1976年(昭和51)に与謝野晶子(よさのあきこ)の書斎「冬柏亭(とうはくてい)」が移築された。
[中山清田]
『『古寺巡礼 京都27 鞍馬寺』(1978・淡交社)』▽『中野玄三著『鞍馬寺』(1972・中央公論美術出版)』
京都市左京区の鞍馬山にある寺。松尾山金剛寿命院ともいい,鞍馬弘教の総本山。唐僧鑑真の高弟の鑑禎が770年(宝亀1)夢告によって開いたとも,また造東寺長官の藤原伊勢人が796年(延暦15)に創建したともいう。本尊は毘沙門天。北方の王城鎮護の寺として公武の信仰あつく,はじめ真言宗,平安末から天台宗に転じ,その後は延暦寺の末寺。近世の寺領は朱印高226石であった。いくたびか火災にかかり,いまの本堂は1872年(明治5)の再建である。中世以来,牛若丸伝説で名高く,また一方で毘沙門天信仰が高まると,鞍馬御師とか願人坊主と呼ばれた法師が,毘沙門天の摺仏(すりぼとけ)や鬼一法眼の兵法虎の巻と称するものを広く配布して歩き,鞍馬信仰は庶民社会に定着した。軍記文学,謡曲,歌舞伎,浄瑠璃,浮世草子など,鞍馬を題材にした文芸が,さらに当寺を庶民になじみ深いものとした。寺宝には国宝の本尊毘沙門天ほか多くの仏像,有名な鞍馬経塚の出土品などがある。有名な〈竹伐り祭〉は,6月20日に本堂の前で,大蛇に見立てた青竹4本を東西2手の山法師が山刀で切り競い,その年の豊凶を占う祭りである。また10月22日の夜中に行われる〈鞍馬の火祭〉は,鎮守の由岐(ゆき)神社の例祭で,当寺の門前の人々が炬火(たいまつ)をもって〈祭礼祭礼(さいれいさいりよう)〉と叫びながら練り歩き,鞍馬の山は火の海のように見え,広隆寺の牛祭,今宮神社の〈やすらい祭〉とともに京都三奇祭とされる。
執筆者:藤井 学
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京都市左京区にある鞍馬弘教の総本山。松尾山と号す。縁起は,造東寺長官藤原伊勢人(いせひと)が貴船明神の示現にあい,796年(延暦15)に建立したと伝える。959年(天徳3)以来延暦寺末寺であったが,1952年(昭和27)独立した。毘沙門天を本尊とし平安京の北方鎮護の寺院として,また融通念仏の寺として広く信仰を集め,源義経や天狗の伝承でも知られる。毘沙門天・同脇侍像は国宝,鞍馬寺文書・聖観音像・銅灯籠などは重文。
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出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
…【小田 雄三】 幸若舞曲では,常盤御前は才色兼備の貴女として造形され,波乱に富んだ生涯を送ったことになっている。都落ちから清盛の愛妾となったことを扱った《伏見常盤》《靡(なびき)常盤》,女人結界の鞍馬寺に登り,別当東光の阿闍梨(あじやり)と法問を繰り広げたのち,牛若を託したという《常盤問答》,鞍馬寺を出て奥州へ下った牛若の後を追い,山中宿で盗賊に遭って殺害されたという《山中(やまなか)常盤》がある。時に,常盤御前43歳であったという。…
…江戸期では狩野探幽,円山応挙,岸駒らの虎図が著名で,寺社の建築装飾(蟇股浮彫など)にも〈竹に虎〉のモティーフはよく用いられている。 ところで,京都の鞍馬寺には,狛犬(こまいぬ)様のトラの石像1対がある。この寺は〈とら〉と関係が深く,縁起によれば,鞍馬山を開創した鑑禎が初めて毘沙門天を拝したのが,寅(とら)の月,寅の日,寅の刻であったという。…
…なかでも,義経西国落ちのとき,海上に現れた平家の怨霊を祈り鎮め(船弁慶伝説),北国落ちには渡しや関所(安宅(あたか)の関がとりたてられて,安宅伝説)で義経を無事に落とすため知謀をめぐらし,衣川の合戦では敵の矢を満身に受けながら,立ったまま死ぬ(立往生伝説)などの説話が注目される。
[熊野,五条天神,鞍馬寺]
《義経記》以外でも《武蔵坊弁慶絵巻》《弁慶物語》,御伽草子の《自剃弁慶》《橋弁慶》があって,これらでも弁慶の父を熊野別当,その生地を熊野としている。《武蔵坊弁慶由来》(静嘉堂文庫)所引の《弁慶願書》(以下《願書》という)では,生地を出雲とし,父を山伏姿の天狗,母を紀伊の田那部の誕象の娘としている。…
…幼名牛若,九郎と称す。平治の乱(1159)で父義朝が敗死したのち母および2人の兄今若(のちの阿野全成(ぜんじよう)),乙若(のちの円成(えんじよう))とともに平氏に捕らえられたが,当歳の幼児であったため助けられて鞍馬寺に入れられた。この時期の義経の行動についてはまったく不明で,ほとんどが伝説・創作の域を出ない。…
…形が怪奇なのとかまれるとはれて激痛があるので恐れられる。ハガチ,ムカゼなどの方言があり,天部の一つである毘沙門天の使わしめという信仰があって,これを尊敬する寺(鞍馬寺)や地方がある。また関東では赤城山の神がムカデの姿であると伝えられ,赤城神社の鳥居にはこの虫が彫刻されている。…
※「鞍馬寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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