日本歴史地名大系 「吉田庄」の解説
吉田庄
よしだのしよう
摂関家領荘園。藤原頼長の「台記別記」仁平三年(一一五三)八月八日条の春日社参の記事に吉田庄がみえ、建長五年(一二五三)の近衛家所領目録(近衛家文書)によると、藤原忠実から子忠通に譲与したが、仁平年間にこれを悔返し、忠実の弟頼長に与えた。しかし、保元の乱で頼長が敗北し、所領二九ヵ所は没官のうえ後院領となった(兵範記)が、吉田庄はそのうちにみられないので、再び忠通の所領になったものと考えられる。以後の相承次第は、近衛家所領目録に忠通―基実―基通―家実―兼経とある。兼経は当庄を宝治元年(一二四七)春日社に寄進した。同目録の春日社の分のうちに、「大和国吉田庄宝治元年四月寄進、充毎月大般若并毎年唯識十講用、一乗院沙汰、但於者猶弁済之」とある。
吉田庄
よしだのしよう
- 島根県:安来市
- 吉田庄
吉田川上流部の現上吉田町・下吉田町一帯にあった摂関家領庄園。「出雲国風土記」
建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)に、「庄務本所進退所々」の一つとして「出雲国吉田庄 宗成 冷泉宮領内」とみえる。冷泉宮領とは三条院皇女冷泉宮(子内親王)に付され、関白藤原頼長の子師実の妻京極北政所を経てその子忠実に伝領された庄園のことであり、摂関家が吉田庄の庄務権を握り、家司藤原宗成を預所に任命するなどして庄園支配を行った。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳には、その第一九番に「吉田庄内九十一丁二反小佐々木四郎左衛門尉」「同庄内五十二丁同人」とあり、出雲国守護佐々木氏の一族で、佐々木秀義六男厳秀(吉田氏の祖)の子泰秀が地頭であった。佐々木(吉田)厳秀は、承久の乱などで初期の領主が没落した後、新しく吉田庄地頭に補任され、その地名をとって吉田氏を称したものと考えられる。南北朝初期に守護京極高氏の目代として活躍した吉田肥前房厳覚もこの吉田氏の一族であり、室町時代には同じく足利将軍の奉公衆を勤めるものもいた(年月日未詳「幕府番帳案」蜷川家文書)。おそらく厳秀の後、京都(もしくは近江)の吉田氏(本家)と出雲の吉田氏(庶子家)とに分れ、京都吉田氏の一族が出雲国守護代や幕府奉公衆などを勤めることとなったのであろう。文明一八年(一四八六)に行われた室町将軍足利義尚拝賀の際、衛府侍を勤めた佐々木吉田右京亮清景(「山科家礼記」同年七月二九日条など)も京都吉田氏であろう。
吉田庄
よしだのしよう
吉田町および
祇園社の「社家条々記録」に「久安五年三月十五日為、勅願被始行一切経会、料所安芸国吉田庄役、以本家米三百石、為領家花山院家雑掌沙汰、尊師呪願並諸僧布施供米以下、楽人舞人禄酒肴、同庁官主典代、召仕、社家公人、師子天童子等下行之、上郷弁庁官主典代等入部奉行之、堂童子参勤之」とあり、久安五年(一一四九)近衛天皇の勅願による一切経会始行に伴ってその料所とされたことが知れる。次いで同記録の保元元年(一一五六)一〇月の条にも、安芸吉田庄の本家米三〇〇石が後白河天皇から祇園社一切経会料所に寄進され、領家として花山院家が沙汰したということがみえ、さらに延慶三年(一三一〇)五月一一日にも、伏見上皇が院宣をもって一切経会料所吉田庄の年貢現米三〇〇石を社家に送るべきことを命じた旨が記される。
吉田庄
よしだのしよう
現豊郷町吉田付近に比定される
吉田庄
よしだのしよう
- 福岡県:行橋市
- 吉田庄
吉田庄
よしだのしよう
吉田庄
よしだのしよう
- 兵庫県:加東郡
- 吉田庄
現小野市・
吉田庄
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- 神奈川県:綾瀬市
- 吉田庄
現綾瀬市・藤沢市など一帯に広がり、横浜市
吉田庄
よしだのしよう
吉田庄
よしだのしよう
吉田庄
よしだのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報