生没年未詳。鎌倉前期の歌人。1204、05年(元久1、2)ごろ20歳前後(22、23歳とも)で没したか。右京権大夫(ごんのだいぶ)源師光(もろみつ)(法名生蓮(しょうれん))の女(むすめ)、母は後白河院(ごしらかわいん)女房安芸(あき)で、宮内卿は絵師巨勢宗茂(こせむねもち)の外孫にあたる。泰光(やすみつ)、具親(ともちか)の妹。後鳥羽院(ごとばいん)に出仕。歌は『新古今集』に初出。『秋風集』『雲葉集』『閑月集』『夫木抄(ふぼくしょう)』等の私撰(しせん)集に入集する。「正治(しょうじ)二年後鳥羽院第二度百首」(1200)、「千五百番歌合(うたあわせ)」などに参加し、後鳥羽院歌壇で活躍した。俊成卿(しゅんぜいきょう)の女と並び称されたが、歌に身を入れるあまり健康を損ね早逝したと伝える。理知的、観念的な作風は女流にしては特色がある。「うすくこき野べのみどりの若草に跡までみゆる雪のむら消え」。「若草の宮内卿」の異名はこの歌によるという。
[糸賀きみ江]
『神尾暢子編著『纂輯後鳥羽院宮内卿歌集稿』(1970・中央図書出版社・王朝叢書)』
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… ところが,明治初年以降の太政官制では,天皇親政の名のもとに,太政大臣,左大臣,右大臣,参議,卿などは,すべて天皇の家臣(朝臣)としての色彩が強く,実際に公家出身者がその職につくことも多かったから,宮廷事務と国政事務との区別は明確でなかった。そして,宮廷事務を担当する宮内卿は,太政大臣のもとで国政担当の卿と同列に扱われていた。また1879年に伊藤博文らは,宮中・府中の別を乱すという理由で,77年より宮内省に設けられた天皇側近の職である侍補等を廃止したり,あるいは参議が宮内卿を兼任しないという原則が主張されたりした。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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