吉野方村
よしのかたむら
[現在地名]日南市吉野方
板敷村の南西に位置し、南東は楠原村。同村との境を酒谷川が流れる。飫肥城下の西方にあたり、同城麓四ヵ村の一(六鄰荘日誌)。城下に近い地内の永吉・山本や北西山間部の瀬田尾・中角・大平には藩士が集住、これらの地は当村庄屋の管轄外であった(郡行政など)。北半は山間の地であったが、南半には平地が広がっていた。運輸・水利の便ともによく、また水害・干害ともに少なかった(日向地誌)。楠原村から村内に入って西進し、竹野から山王坂(現在の瀬田尾野)を経て北に向きを変えて北河内村(現北郷町)の黒山から都城に至る往還(北河内往還)や竹野で同往還から西に分れ、愛宕越から酒谷村を経て同じく都城に至る往還が通っていた。また北河内往還の樫木八重から東へ折れ、板敷村に至る道もあった。酒谷川に臨む篠ヶ嶺の崖上に篠ヶ城跡、篠ヶ嶺の西に連なる丘上に鎌ヵ倉砦跡、元仮屋には田間(玉)砦跡、永吉の北には細砂礫砦跡など中世の城館跡が残る。なお鎌ヵ倉砦は中世には酒谷(逆谷)のうちとされ、鎌ヶ蔵(「島津忠昌譜」旧記雑録)、竈之蔵(「義岡豊久譜」同書など)、釜鹿倉(庄内平治記)などとも書き、竈ヶ城などともいった。
文明一六年(一四八四)一二月薩摩の義岡島津豊久は伊作久逸と伊東祐国の軍勢に取囲まれた飫肥城の新納忠続支援のため、単身三〇〇の兵を率いて「逆谷竈之蔵」に陣を構えた。同月二二日この陣に伊作・伊東勢二千が来襲して合戦となり、豊久・志和池忠豊らは衆寡敵せず戦死し(「文明記」、「義岡豊久譜」「島津忠昌譜」「志和池忠豊譜」旧記雑録など)、薩摩勢は翌日未明のうちに「釜鹿倉」から退却したという(庄内平治記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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