日本歴史地名大系 「和田山村」の解説 和田山村わだやまむら 群馬県:群馬郡箕郷町和田山村[現在地名]箕郷町和田山富岡(とみおか)村の南にあり、東は白(しら)川を境に上柴(かみしば)村・下柴村。東部の川沿いは平地で、南から前和田(まえわだ)・天神坂(てんじんざか)・中和田(なかわだ)・後和田(うしろわだ)と集落が続く。西部は丘続きで畑地。西部丘陵にはかつて七〇基を超える古墳があったが、現在は円墳数基が残る。消滅したもののうち桜塚(さくらづか)古墳は墳丘の径二〇メートルと推測される円墳で、横穴式石室を有し、銅鏡・馬具・大刀・玉類・須恵器・提瓶・長頸壺など多数を出土した。前和田は永禄一一年(一五六八)正月二三日付武田信玄定書(中沢文書)に「前和田之内 拾四貫五百文」とみえる。宛先は当地にあった極楽院の写本によると極楽院。 和田山村わだやまむら 兵庫県:朝来郡和田山町和田山村[現在地名]和田山町和田山現町域の中央部にあり、円山(まるやま)川の上流域、大きく屈曲した内側の山麓に位置する。史料上は和田山町とみえる場合が多い。一七世紀前期・中期とされる国絵図(石川家蔵)では「和田山町」とみえ、土田(はんだ)町および竹田(たけだ)町と結ぶ道が記される。正保(一六四四―四八)頃の国絵図でも和田山町として高三七石余。幕府領として推移したと考えられる。元禄郷帳では和田山村とあり、町の朱注が記される。但馬国高附郡訳手控(岡田家文書)では和田邑として高三八石と記される。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙および天明八年(一七八八)の高村附邑名控では高四一石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報