和賀江島(読み)わかえじま

改訂新版 世界大百科事典 「和賀江島」の意味・わかりやすい解説

和賀江島 (わかえじま)

鎌倉市の材木座海岸東端にある飯島崎の付け根から,西へ向かって海に突き出した中世築港跡。現存する鎌倉時代の築港としては唯一のもので,酒匂(さかわ)川の河原石を積んで造られている。1232年(貞永1)波が荒く遠浅由比ヶ浜で難破する舟を救おうと,筑前鐘ヶ崎の泊を前年に築いた往阿弥陀仏が発願して幕府の許可を得,執権北条泰時らの援助を受けながら二十数日を費やして完成した。その後,極楽寺の忍性も修造を行ったことがあるらしく,1349年(正平4・貞和5)には,忍性の先例に任せて,極楽寺が修理を施し,津料の徴収権を保証されている。鶴岡八幡宮の修造に際しては,その用材がここから陸揚げされたことが記録に見える。この付近を材木座というのもそのためかもしれない。江戸時代には沿岸漁業の拠点としても使われていたらしく,材木座村と小坪村漁民の間で島の帰属をめぐって争いがあった。
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百科事典マイペディア 「和賀江島」の意味・わかりやすい解説

和賀江島【わかえじま】

相模国鎌倉の材木座海岸沿いの飯島岬突端に,港湾施設としてつくられた鎌倉時代の築島。1232年船の着岸の安全と便利のために,勧進聖人往阿弥陀仏が発願し,幕府の許可を得て約二十数日で築かれた。鶴岡八幡宮の修理用材はここで陸揚げされ,また唐船も入港していたとみられる。1349年には忍性の時の先例に任せ,極楽寺長老に〈築島〉を修築し,飯島の敷地や升米を徴収する権利が認められている。これより前,1307年には和賀江関所沙汰人である極楽寺の行者らが,和賀江住人が関米を奪うなどの乱妨を働いたとして訴えており,鎌倉時代末期には極楽寺の管理下にあったことは確実である。江戸時代にも鶴岡八幡宮修理用材を積んだ船の停泊場所として利用され,島の修復工事も施された。また周辺の村の漁船の停泊場所でもあり,島の帰属をめぐる争いなどもあった。現存する唯一の鎌倉時代築港跡として,国史跡に指定されている。
→関連項目飯島関

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「和賀江島」の解説

和賀江島
わかえじま

鎌倉時代に築造された相模国鎌倉郡の港。現在の神奈川県鎌倉市材木座の飯島崎一帯。1232年(貞永元)勧進聖人往阿弥陀仏は執権北条泰時の許可をえて築港を行い,翌年に完成。周辺は商業地区としてにぎわった。1307年(徳治2)には和賀江関所があった。49年(貞和5・正平4)の足利尊氏書状写によると,和賀江島のある飯島に到着する船からの津料の升米(しょうまい)徴収と島修築は,極楽寺が管理した。国史跡。

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世界大百科事典(旧版)内の和賀江島の言及

【港湾】より

…一般に貿易港としての津は,他国との交流が繁しい一方,外敵の侵入や雑居の影響を受けやすい欠点があり,このため権威の集中する都宮は津から離れて置かれるのが通例であったことを考えると,福原遷都は短期間ではあったが,清盛の意図は近代の港湾の考え方に近いものであったといえる。 鎌倉時代初期には勧進僧往阿弥陀仏(おうあみだぶつ)らにより,鎌倉の材木座に和賀江島が築港されて日宋貿易が行われたが,高波による防波堤破損のためその機能を失ってしまった。この例のように,一般に,沿岸に津,泊を築くことは,入江や深く湾入した水域以外容易でなく,古代,中世を通じて,河川沿い,あるいは河口に発達していったものがほとんどである。…

※「和賀江島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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