鎌倉後期の律僧、社会事業家。房号は良観(りょうかん)。伴貞行(とものさだゆき)の子として、大和(やまと)国(奈良県)城下(きのしも)郡屏風里(びょうぶのさと)に生まれる。幼時、信貴山(しぎさん)に参詣(さんけい)し、深く文殊菩薩(もんじゅぼさつ)に帰依(きえ)する。1232年(貞永1)母を失い、額安寺で剃髪(ていはつ)。その後、唐招提寺(とうしょうだいじ)の覚盛(かくじょう)に戒律を学び、叡尊(えいぞん)に従って西大寺(さいだいじ)に住する。また北山宿(きたやましゅく)における救らいをはじめ、慈善救済に努めた。1247年(宝治1)には律書を遠く中国宋(そう)に求め、戒律の復興を図る。1252年(建長4)関東に下向、初め八田(はった)氏の外護(げご)を受け、常陸(ひたち)(茨城県)清凉(せいりょう)院に住し戒律を講じた。1262年(弘長2)叡尊の鎌倉での教化を契機に、北条重時(ほうじょうしげとき)一族の支援を受け、鎌倉極楽寺を中心に戒律の復興を図り、西大寺流の発展に尽くした。また非人の統制をはじめ、療病所や馬病舎を設けるなど、社会救済事業の推進を図るとともに、寺院経営、出版事業にも手腕を発揮し、「生身の如来(にょらい)」と称されたが、日蓮(にちれん)からは「律国賊」の張本として激しく排斥された。乾元(かんげん)2年7月12日、極楽寺において87歳で没。没後、後醍醐(ごだいご)天皇から忍性菩薩の称号を賜った。極楽寺、額安寺に五輪塔がある。
[納冨常天 2017年9月19日]
『和島芳男著『叡尊・忍性』(1959/新装版・1988・吉川弘文館)』▽『中尾堯・今井雅晴編『重源 叡尊 忍性』(『日本名僧論集 第5巻』1983・吉川弘文館)』
鎌倉時代の西大寺流律宗の僧。字は良観。大和国の人。俗姓は伴氏。幼年より母の影響で文殊信仰を学び,16歳のおり,母の死に際して仏門に入ることを決心。額安寺・安倍文殊院・生駒山竹林寺で修行をした。1239年(延応1)23歳で叡尊と出会って戒を受けその弟子となった。これ以降,律僧として戒律の復興に努める一方,文殊信仰にもとづく非人・癩患者救済に奔走した。52年(建長4)36歳で律宗の東国布教をめざして関東に下向,常陸三村寺に住した。62年(弘長2)師叡尊の鎌倉下向に際しての活動で北条氏の信頼を得,以後多宝寺・極楽寺など鎌倉の寺にあって,非人救済,作道(極楽寺坂),殺生禁断(鎌倉前浜)などの慈善事業に努めた。また,東大寺大勧進,四天王寺別当,摂津多田院別当などを兼任,死後菩薩号を贈られた。
執筆者:細川 涼一
叡尊門にいて奈良西大寺に住していた1240年,常施院,悲田院を設けて病者を収容,83年(弘安6)疫病流行の際には群僧を指揮して救療を行い,日本最初の癩病舎北山十八間戸を建立した。難波四天王寺に悲田院,施薬院,療病院を復興,鎌倉極楽寺を開山し寺域内に救療施設を設け,桑谷(くわがやつ)に広大な療病舎を設け貧病者を救済するなどして,世人より生身の如来,医王如来とあがめられた。
執筆者:宗田 一
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(細川涼一)
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1217.7.16~1303.7.12
鎌倉中・後期の真言律宗の僧。字は良観房。鎌倉極楽寺の開山。叡尊(えいぞん)の弟子。大和国生れ。父は伴貞行。大和国額安寺で出家し東大寺で受戒したのち,1245年(寛元3)叡尊に別受戒をうけ比丘(びく)となった。年少より行基(ぎょうき)を思慕し,文殊を深く信仰して非人救済に尽くした。52年(建長4)関東に下向し,常陸国三村(みむら)寺を活動の拠点とした。61年(弘長元)鎌倉に入り,北条氏の帰依を得て授戒活動を活発に行った。67年(文永4)招かれて極楽寺開山となった。その宗教活動は授戒とともに,療病院・癩宿などの救済施設を造り,道路・橋梁などの土木事業を行い,そのための津料・関銭徴収権を得るなど社会事業的な面があった。幕命で攘夷や雨乞い祈祷を行うなど,真言修法と戒律が兼修されていた。
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…本宗の小田氏および庶流の宍戸氏は鎌倉時代を通じて,常陸守護の任に就いた。4代の時知は,西大寺流律宗の忍性(にんしよう)を外護,1252年(建長4)一族の寺である,三村山清涼院極楽寺に忍性を迎え,以後10年にわたり,この地方は律宗の関東地方における拠点となった。筑波の峰続きの三村山を中心に,西大寺流の律宗の展開を示す石造物が多く現存している。…
…鎌倉仏教の興起と都市鎌倉は,やはり深い関連があったのである。特に鎌倉にとって重要な役割を果たした人物は,北条氏一族と結びついて鎌倉の西の入口極楽寺を本拠とし,社会事業や下層民の救済につくす一方では,和賀江島や由比ヶ浜一帯の管理者として活躍し,日蓮とするどい対決をくりかえした真言律宗の忍性(にんしよう)とその門弟たちであった。彼らは,幕府が十分に支配・統御できなかった鎌倉周縁部に生きた多くの人びとを政治的中心に結びつける回路でもあったと考えられるからである。…
…この往生祈願のために貧者・非人供養を行うという浄土教の考えは貴族の間にも流行し,たとえば1027年(万寿4)の藤原道長の葬送に際しては,悲田院病者・六波羅蜜乞者(のちの清水坂非人)に米・魚・海藻などが施行されている。 しかし,中世における慈善事業の白眉ともいうべきは,非人を文殊菩薩の化身とみなすことでこれを供養した,西大寺叡尊や極楽寺忍性(にんしよう)を中心とする鎌倉時代後期の律僧の宗教的非人救済運動であろう。思円房叡尊は,1240年(仁治1)に大和額田部宿で非人供養を行ったのを皮切りに,大和・河内・和泉の諸非人宿において非人に施行をし,彼らに斎戒を授けてその日常生活をも統制することで非人供養を行った。…
…のち頼光のほか河内源氏の頼信(誕生は多田館という)・頼義・義家が合祀され,源氏の菩提所となっていった。 鎌倉後期になると忍性(にんしよう)が幕府の援助で寺院を再興し,1281年(弘安4)に本堂供養が行われ,別当職は忍性に付せられた。以後当院は大和国西大寺(さいだいじ)の管轄となり,天台宗から真言律宗に変わる。…
…奈良時代に,日本に律宗を伝え唐招提寺の開祖となった唐僧鑑真(がんじん)の事績を描いた絵巻。鎌倉時代における南都旧仏教復興の機運を背景として,1298年(永仁6)鎌倉極楽寺の開山忍性が六郎兵衛蓮行なる画工に描かせ,本山唐招提寺に施入したことが奥書や端書によって知られ,現在5巻本として唐招提寺に所蔵されている。内容は,奈良時代末779年(宝亀10)に淡海三船(おうみのみふね)が撰した《唐大和上(とうだいわじよう)東征伝》に基づき,鑑真の孫弟子豊安の《鑑真和上三異事》をも参照して,和文化した詞書に絵をつけたもの。…
…これら文殊会は律令国家の没落とともに衰退したが,13世紀には真言律宗によって再興された。鎌倉新仏教の進出に対し,律僧教団による旧仏教の再興を目ざす西大寺叡尊は,諸国を周遊し,貧病者救済の徹底した慈悲行を実践したが,その門弟忍性(にんしよう)は,深く文殊に帰依し,1240年(仁治1)額安寺西辺宿で文殊像供養の際,非人に布施を行った。この忍性の影響によって,西大寺教団は以後各地で文殊像供養と大規模な非人布施を実行した。…
…のちには天刑病ともいわれ,不治の業病とされた。光明皇后が癩者の膿を吸ったという伝説があり,鎌倉時代の僧忍性(にんしよう)は奈良の北山十八間戸(けんと)と鎌倉の極楽寺に癩宿をつくり,救癩活動を始めている。 江戸時代には癩は〈かったい〉と呼ばれ,社会から締め出された癩者は,四国や九州の霊場や寺院を遍歴・徘徊していた。…
※「忍性」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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