(沢井耐三)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
生没年未詳。鎌倉末期の連歌師。1312年(正和1)の法輪寺千句に、弟子の順覚、信昭とともに臨み、すでに相当な高齢だったと考えられる。京の法輪寺や鷲尾(わしのお)での花(はな)の下(もと)連歌の宗匠で、その門下に順覚、信昭、十仏(じゅうぶつ)、救済(きゅうせい)らが輩出し、地下(じげ)連歌の興隆に尽くした。とくに、救済が二条良基と結んで連歌を大成することにより、善阿らの地下連歌が連歌の主流を占めることとなった。建治(けんじ)の新式を実際に制定したのは善阿だといわれ、『連葉集』という句集があったが、散逸。『菟玖波(つくば)集』には32句入集。
[島津忠夫]
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…和歌では,中世,近世において,二条家,冷泉(れいぜい)家など,和歌の家の人々が勅許を得て称され,天皇,上皇の和歌の師範を勤めた。連歌では,二条良基が善阿を称して〈近代地下(じげ)の宗匠〉といっているのは,第一人者の意と思われる。1448年(文安5)幕府の命により京都北野社の連歌会所の奉行職に高山宗砌(そうぜい)がつき,そのあと,能阿,宗伊,宗祇(そうぎ),兼載らが任ぜられたが,この人々は宗匠と称された。…
…鎌倉初期に百万遍念仏が行われたことは,滋賀県信楽(しがらき)町玉桂寺の阿弥陀仏像胎内文書で明らかであるが,後世のような大念珠が用いられていたかは不明である。浄土宗で攘災のためにこれを行った最初は知恩寺世善阿空円と伝える。善阿は1331年(元弘1)後醍醐天皇の勅により7日間にわたって念仏百万遍を修したところ,疫病が終息したので,天皇から〈百万遍〉の寺号と弘法大師利剣の名号を賜ったという。…
…鎌倉時代の中・後期にその初期形態が見られ,13世紀半ばの道生(どうしよう),寂忍らが〈花下(はなのもと)連歌〉の興行・指導をしているのがその例であるが,実態は明らかではない。14世紀はじめころ活躍した善阿(ぜんあ)は七条道場金光寺の僧であったが,組織的な連歌会の運営と門弟の育成をおもな仕事としており,連歌式目の制定にも関与するなど,専門の連歌師と呼ぶにふさわしいものがある。作風も前代の和歌的情趣による句作を超え,〈地下(じげ)〉独自の雅俗入りまじった付合(つけあい)を創始し,地下連歌の作風の源流となった。…
※「善阿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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