四国艦隊下関砲撃事件(読み)しこくかんたいしものせきほうげきじけん

  • しこくかんたいしものせきほうげきじけん シコクカンタイしものせきハウゲキ‥
  • しこくかんたいしものせきほうげきじけん〔シコクカンタイしものせきハウゲキ〕

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

馬関戦争,馬関砲撃とも,単に下関事件ともいう。元治1 (1864) 年8月,イギリス,アメリカ,フランスオランダの連合艦隊が長州藩に攻撃を加えた事件文久3 (63) 年長州藩は攘夷親征の朝旨を実現するため,攘夷実行開始期日の5月 10日になると,ただちに下関海峡を通過するアメリカ商船に砲撃を加え,さらに列国軍艦にも攻撃を加えた。当時列国は親外政権である江戸幕府を援護して日本の政局を安定させようとしていたが,幕府の統治力では攘夷主義勢力を抑止できないことを知った。そこでアメリカ,フランス軍艦は報復のための実力行使に訴え,まず長州藩砲台および同藩軍艦に攻撃を加えて損害を与え,それとともに幕府に長州藩に対する処罰,賠償を要求した。しかし幕府が依然として処罰を実行できないのをみたイギリス公使 R.オールコックは,攘夷の拠点である長州に総攻撃を加えて,事態の打開をはかろうと決意し,他の3国代表の賛成を得て 17隻に上る4国の連合艦隊を編成して下関に向わせた。ロンドンから急いで帰藩した伊藤俊輔,井上馨らの制止にもかかわらず,長州藩は列国側の要求に応ぜず,ついに砲火が交えられた。長州藩砲台は,圧倒的な列国の火力の前に壊滅し,長州藩は降伏して列国の要求を受諾した。この砲撃事件以後,長州藩内の攘夷主義的指導者は,列国に接近しつつ討幕運動に力を傾けるにいたった。

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精選版 日本国語大辞典の解説

元治元年(一八六四)、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊が、外国船を砲撃した長州藩に報復し、攘夷派に打撃を与えるために下関を砲撃し砲台を占領した事件。長州藩の敗北の後、償金問題が残った。馬関戦争(ばかんせんそう)

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旺文社日本史事典 三訂版の解説

幕末,長州藩による外国船砲撃に対する四国連合艦隊の報復砲撃事件
下関事件ともいう。1863年,文久の打払令によって長州藩が下関海峡通過中のアメリカ・フランス・オランダ船を砲撃したので,翌'64年イギリスを加えた四国連合艦隊は下関砲台を攻撃し,長州藩を屈伏させた。これにより長州藩は攘夷の不可能を認識し,以後イギリスに接近した。

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世界大百科事典内の四国艦隊下関砲撃事件の言及

【馬関戦争】より

…1864年(元治1)8月,イギリス,フランス,アメリカ,オランダの4国連合艦隊が下関の砲台を攻撃し,攘夷派を屈服させた事件。四国艦隊下関砲撃事件ともいう。1863年(文久3)攘夷期日を5月10日とする朝命を実行すべく,長州藩は下関(馬関)海峡で外国船を砲撃した。…

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