日本大百科全書(ニッポニカ) 「討幕運動」の意味・わかりやすい解説
討幕運動
とうばくうんどう
江戸幕府権力を、武力をもって倒すことを目的とした幕末の政治運動。その先駆は、尊王攘夷(じょうい)激派が企てた挙兵である1863年(文久3)の天誅組(てんちゅうぐみ)の変、生野(いくの)の変であるが、有力な政治運動となるのは、尊王攘夷運動の挫折(ざせつ)・転回以後のことである。すなわち、この年の八月十八日の政変と薩英(さつえい)戦争、翌年の四国連合艦隊下関(しものせき)砲撃事件を経験した尊王攘夷派は、政治運動の理念の面でも、形態の面でも大きく転換した。攘夷を実行するためにも軍備を洋式に改める必要があり、そのためには外国文化を摂取せねばならぬと、薩長をはじめ諸藩は欧米諸国に接近することとなり、貿易を行い、武器・艦船を輸入し、留学生を密航させた。また欧米列強の圧力に対抗するため、幕府専制、幕府・諸藩割拠の体制を改め、統一国家を樹立する必要が認識され、そうした改革を実現する手段ないし道具として、天皇の権威を政治的に利用しようとする態度が強まった。こうして尊王と攘夷の本来の理念がもつ政治指導力が失われると、勅諚(ちょくじょう)の権威のもとで活躍できた脱藩の士や浪人などの志士の勢力が衰え、大藩の尊王攘夷派が藩権力を握り、藩の財政と軍事力に依拠し、その圧力をもって幕府専制の打破が策された。しかし討幕運動の進路は紆余曲折(うよきょくせつ)であった。将軍・幕府の存在を否定することは、大名に対する藩士の忠誠観念を崩壊させ、民衆の反抗を引き起こす危険があり、他方で幕府と諸藩との内戦は、欧米列強の植民地化政策を推進させる機会となる心配があった。幕府権力を武力をもって倒す(討幕運動)か、幕府権力の存続を認めながら、その専制体制を武力を使わずに改革する(大政奉還運動)か、この二つの政治路線は対立しながらも絡み合っていた。
1865年(慶応1)幕府が反幕派の拠点である長州藩を討つべく第2回長州征伐を企てると、翌年正月、薩摩藩の代表西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)は、土佐脱藩士坂本龍馬(さかもとりょうま)・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の仲介によって、長州藩の代表木戸孝允(きどたかよし)らと、両藩が協力して討幕を行う密約を結んだ。6月幕府軍と長州藩軍との間の戦闘が始まったが、幕府は諸藩の大軍を動員しながらも、当初の敗戦に気がくじけて、早くも8月には休戦を令し、幕府の権威を自ら失墜させた。これは、財政窮迫に悩む諸藩が戦争に消極的であり、この空気を背景に薩摩藩が出兵を拒絶したこと、またこの内戦を機に、フランスが幕府を援助し、これに対抗してイギリスの薩長両藩を支援する動きが露骨となったことが、武士層の間に内戦回避の空気を強めたことによるが、また民衆の反封建闘争が高まったことも強く作用していた。この年には米価をはじめ物価の暴騰や、戦争に伴う負担の加重に悩む民衆が、江戸・大坂とその周辺地帯を中心に、全国で一揆(いっき)・打毀(うちこわし)に立ち上がり、江戸時代を通じて最大の高揚を示した。
こうした情況のなかで、討幕の薩長同盟密約を結んだ薩藩の西郷・大久保らは、1867年(慶応3)6月に土佐藩代表後藤象二郎(ごとうしょうじろう)と会し、後藤の主張する大政奉還実現のための薩土盟約を結んだ。しかしその裏面では、長州藩・芸州(広島)藩の討幕派や岩倉具視(いわくらともみ)ら討幕派公卿(くぎょう)との間で、武力倒幕の計画を進めた。後藤は西郷の同意を得て、10月前藩主山内豊信(やまうちとよしげ)の名で大政奉還の建白書を幕府に提出、これを受けて将軍慶喜(よしのぶ)が大政奉還の上表を天皇に提出した。しかしその前日および当日、大久保らがかねて画策していた薩摩藩主父子宛(あて)と長州藩主父子宛の討幕の密勅が岩倉から手交された。それにもかかわらず慶喜の上表は勅許された。大政奉還の実現は、中央政局における土佐藩の指導力と徳川氏の勢力の温存を意味した。そこで薩長両藩はこれに対抗するため、12月9日に宮中クーデターを行い、幕府の廃止と王政復古を天皇の名で宣言させ、徳川氏の勢力を排除した天皇政権を樹立した。ついで翌年正月の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いをきっかけに戊辰(ぼしん)戦争を起こし、武力倒幕を実行した。これには薩長側の挑発が働いていた。戊辰戦争は9月の会津落城を経て、1869年(明治2)5月の箱館(はこだて)陥落をもって終わった。これによって薩長両藩の指導力は確立したが、同時に諸藩全体の解体化が促進され、この年6月の版籍奉還、翌々年の廃藩置県によって、統一国家建設の土台が築かれた。
[遠山茂樹]
『遠山茂樹著『明治維新と現代』(岩波新書)』▽『石井孝著『明治維新の舞台裏』(岩波新書)』