ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
江戸時代、周防(すおう)、長門(ながと)の両国を領有した藩。外様(とざま)。萩(はぎ)藩、山口藩、毛利(もうり)藩ともいう。藩主毛利氏はもともと安芸(あき)国吉田(のち広島)を本拠とする戦国大名であり、中国地方8か国を領有する120万石の大名であった。しかし1600年(慶長5)毛利輝元(てるもと)は関ヶ原の戦いに敗れて防長2国に減封された。城を萩に築いて入部した輝元は、領内東部3万7000石を吉川広家(きっかわひろいえ)に分与して岩国領、西部4万7000石を毛利秀元に与えて長府(ちょうふ)藩(豊浦(とよら)藩)、南部2万石を毛利就隆(なりたか)に与えて徳山藩をつくらせた。長府藩はそのうち1万石を割いて清末(きよすえ)藩をつくった。こうして領内に3藩と1領ができるが、これら支藩に対して親である長州藩のことを本藩・宗藩という。1610年、輝元は両国内の総検地を実施し53万石を検出するが、幕府はこれを36万余石と認定し、これが朱印高として藩の公式石高(こくだか)となった。輝元は防長入部時には隠居していたので、初代藩主には秀就(ひでなり)が就任し、こののち綱広(つなひろ)、吉就(よしなり)、吉広(よしひろ)、吉元(よしもと)、宗広(むねひろ)、重就(しげなり)、治親(はるちか)、斉房(なりふさ)、斉煕(なりひろ)、斉元(なりもと)、斉広(なりとう)、敬親(たかちか)と続く。1659年(万治2)、藩府はこれまで公布した法令を取りまとめ、新しく「万治(まんじ)制法」を実施するが、この法令は長州藩の憲法であり、藩制上の基本法となった。また家臣団を再編成し、大組(おおぐみ)6組と船手組(ふなてぐみ)2組を定めた。この組は軍事組織であるとともに、平時は行政組織でもあって、諸般の行政を担当した。この組織の編成に伴い、各組を統括する階級を定めた。すなわち、藩主を補佐する一門両家、各組の長となる寄組(よりぐみ)、各組を構成する大組、大組の下に無給通(むきゅうどおり)、さらにその下に足軽(あしがる)、中間(ちゅうげん)層を置いた。1625年(寛永2)第2回目の検地を実施して本支藩あわせ約66万石、86年(貞享3)本藩領だけの検地で63万石、1761年(宝暦11)本藩領検地で約71万石を検出した。この後の検地は実施されないが、幕末期の内検高は100万石以上と推定される。最後の検地となった宝暦(ほうれき)検地では、小村帳(土地台帳)と小村絵図(地籍図)を作成し、実態の把握に努めた。またこの検地による増徴分を別途会計とし、撫育方(ぶいくかた)という役所を置いて干拓事業や藩専売事業の強化を図った。またこのころから特産品の奨励を行い、紙、塩、蝋(ろう)、木綿などの生産を高める措置をとった。しかし、藩専売制の強化は農民の反対を招き、1831年(天保2)の大一揆(いっき)となった。このため藩政改革を行い、明治維新遂行の道を歩むことになった。
幕末維新期には、尊王攘夷(じょうい)運動の拠点となり、下関(しものせき)戦争、蛤御門(はまぐりごもん)の変、第一次長州征伐を経て、第二次長州征伐(四境(しきょう)戦争)に勝利、薩摩(さつま)藩と連合して討幕運動を進めた。明治新政府には、木戸孝允(たかよし)(桂(かつら)小五郎)、伊藤博文(ひろぶみ)(俊輔(しゅんすけ))、井上薫(かおる)(聞多(もんた))ら多くの人材を送った。なお、1863年(文久3)藩庁を萩から山口に移した。71年(明治4)4月、徳山藩を併合、7月廃藩置県で4県が生まれ、同年11月4県を統合して山口県となる。
[広田暢久]
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
… 藩領では,幕末まで大庄屋制度を維持したところが多い。長州藩(外様大名)では領内を宰判(幕末には18宰判)という行政区域に分け,宰判ごとに代官と大庄屋を置いた。各宰判はおおむね20~30ヵ村を含み,大庄屋が各村庄屋を統轄した。…
…幕府はこの勅命に従うことを決定し,63年(文久3)将軍家茂は攘夷の上奏のために京都へ上り,3月,二条城に入った。この間朝廷では,長州藩尊攘派に支持された少壮公卿が,新設された国事御用掛,国事参政,国事寄人など朝廷の意思を決定する機関の主導権を握り,朝議を攘夷決行の方向に導いた。孝明天皇の賀茂社,石清水社への攘夷祈願の行幸も,このような状況の中でおこなわれた。…
…
[西南諸藩の改革と田沼の幕政]
危機的状況にたいして,西南諸藩は幕府より早く対応した。長州藩や熊本藩の宝暦改革などがそれである。これらの諸藩では,藩校の設立・整備と人材登用によって,行政の論理と才能とを整え,年貢増徴のほかに,商人や豪農と結託した殖産興業政策を進め,藩専売制や藩札制度によって商品経済の果実を藩財政の中に組みこもうとした。…
…東北諸藩は幕府の統制強化を背景にして領内の流通統制を徹底し,直接生産者(漁民)との対立を激化させたが,西南諸藩は幕府の俵物独占集荷体制を解体させる動きを示した。1807年(文化4)長州藩は俵物からの利益獲得を目ざし,独自の領内統制を行って藩の役場引請制を実施した。このころ,薩摩藩は北国筋の俵物を大規模に密買し,琉球貿易を通して俵物輸出を独自に行った。…
…
[諸藩の改革]
幕府の改革と並んで,いくつかの有力な藩でも藩政の危機に際して,独自な改革を断行した。たとえば長州藩では,天保初年に藩専売制に反対する防長大一揆が起こり藩政の危機を迎えたが,1838年に中士層に属する村田清風を登用して改革に着手した。まず従来の専売仕法を改めて農民からの収奪を緩和する一方,下関など主要な港に越荷方を設け他藩の船に資金を融通して利潤をあげた。…
…そして,文久3年8月18日の政変や翌1864年(元治1)7月の禁門の変,同年8月の4国連合艦隊の下関砲撃事件,およびこれとほぼ時期を一にして行われた第1次征長等のプロセスで,京都あるいは長州を拠点に展開した尊攘運動は敗北・挫折した。長州藩内では,幕府への恭順を主張する保守派(いわゆる俗論派)が藩権力を握り,第1次征長に長州藩は戦わずして屈伏した。この情勢を一転させたのが1864年末から翌65年(慶応1)初めにかけての高杉晋作らの馬関(下関)挙兵である。…
…53年(承応2)長府藩主綱元は秀元の子元知へ豊浦郡のうち14ヵ村,高1万石を与え,清末藩を興させた。長州藩は郷村支配の行政単位として宰判を設け,長門国では奥阿武,当島,浜崎,美祢,船木,吉田,前大津,先大津の8宰判を置いた。 長門国の北浦では漁業が盛んであったが,中でも鯨漁は漁村に大きな活力を与えた。…
… 幕府では1849年(嘉永2)伊豆韮山代官江川太郎左衛門が農兵取立てを建議したことが知られているが,実現するのはようやく63年(文久3)になってからである。しかし外圧を深刻に受け止めた諸藩では,水戸藩が55年(安政2)に着手し,相模三浦半島東岸の外警の第一線に当たった長州藩も,同年現地に1000人規模の農兵を組織した。農兵は弱体化した幕藩領主の軍事力を補完する役割を担ったのである。…
…長州藩主毛利吉元が永田瀬兵衛政純に命じて,藩内諸家所蔵の古文書・系譜を編纂させたもの。1720年(享保5)に着手し,6年後に首巻と本文204冊が完成。…
…長州藩が天保改革を推進するため,領内の実態の把握を試み,全町村から差し出させた明細書。藩主毛利敬親(たかちか)は領内全域の町村に明細書の提出を求め,当職所に国郡志御用掛を置き,1842年(天保13)近藤芳樹にその編纂を命じた。…
…長州藩主毛利綱広が榎本遠江就時に命じて,1660年(万治3)から翌年にかけて制定させた同藩の基本法。幕令をもとにしながら毛利元就以来の法令を29編に集大成したもの。…
…これが一般的な〈明治維新〉の語の由来の説明である。だが,幕末期長州藩で結成された諸隊のなかの被差別部落民で組織された隊にすでに〈維新団〉とか〈一新組〉とかいう名称がつけられており,彼らの解放の願望がこの〈維新〉や〈一新〉の言葉にはこめられていた,とみられる。その意味で,〈維新〉という語には,幕藩体制下に虐げられていた人びとの解放への思いが秘められていたのである。…
※「長州藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
《「ノブレスオブリージュ」とも》身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観。もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞...
12/21 デジタル大辞泉を更新
12/21 デジタル大辞泉プラスを更新
12/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/28 デジタル大辞泉プラスを更新
10/28 デジタル大辞泉を更新
10/27 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新