長州藩 (ちょうしゅうはん)
江戸時代,周防国,長門国(ともに山口県)を藩領とした外様藩。萩藩,毛利藩,山口藩などともいう。表高は36万9411石余だが,明治初年の実高は98万8000石余とされる。戦国大名として安芸国を中心に,中国地方8ヵ国120万石を領有した毛利氏は,1600年(慶長5)の関ヶ原の戦で毛利輝元(元就の孫)が豊臣方に加わり,ために敗戦後,徳川氏によって削封され,周防,長門の2ヵ国に封じられた。以後この2ヵ国を長州藩の領域として明治維新にいたる。萩を居城としたが,1863年(文久3)に山口へ移鎮した。一族を分給した長州藩の支藩領は,ときに変化したが,長府毛利氏5万石,徳山毛利氏4万0010石,清末(きよすえ)毛利氏1万石(一般にこれを三支藩という),および岩国領(岩国吉川(きつかわ)家。1868年藩となる)6万石よりなる。
家臣団は,一門6家(三丘宍戸家,右田毛利家,厚狭(あさ)毛利家,吉敷(よしき)毛利家,阿川毛利家,大野毛利家),益田(須佐),福原(宇部)両家の永代家老以下,寄組(よりぐみ)などの上層家臣60余家についで,馬廻組(大組),船手組など(これらを八組ともいう)によって編成され,これが藩の軍事ないし官僚組織の基幹をなした。家臣の数は時代によって異なるが,1852年(嘉永5)の調査では,一門・家老以下の士2599人,諸士雇(やとい)118人,足軽以下2958人,合計5675人となっている。藩初以来,改易・転封のなかったこともあって,家臣団への地方知行率は比較的高く,1625年(寛永2)で約57%,1820-50年(文政~嘉永期)ころで28%余となっている。農商その他の人口は,1826年(文政9)農11万1675戸,商3400戸で,45万0309人(男23万4455人,女21万5854人)とされ,1868年(明治1)の維新政府への届出では,11万4604戸,50万4921人(男25万9806人,女24万5115人)となっている。藩内は行政区として郡相当の18宰判(裁判とも書く。区域は時代で若干異なる)に分けられていた。支配の機構は藩主に随従して,江戸で藩政の枢機に参画した当役(とうやく)(のち行相という)と,藩地にあって財政や民政に当たった当職(とうしよく)(国相)があり,当職以下は総称して地方(じかた)職座といった。当役の権は時代が下がるにつれて当職を凌駕(りようが)し,さらに実権は当役の下にあった手元役や右筆(ゆうひつ)に移った。ここに人材が登用されたからである。
藩財政は,8ヵ国から防長2ヵ国への削封によって当初から赤字に悩まされたが,1762年(宝暦12)の検地の打出し高4万1600余石を財源として,翌年撫育(ぶいく)局を設置し,これを別途会計として新田開発や専売制の推進に努め,また,下関を中心とした越荷(こしに)方などで多くの利益をあげ,毎年3000~5000両を蓄えたという。幕末期のこの藩が藩財政の赤字にもかかわらず活躍できたのは,この撫育方による別途会計の蓄積があったからだとされている。1831年(天保2)の防長大一揆に端を発する天保改革以後,長州藩は外圧下の藩政改革と激しい政争をくぐりぬけ,薩摩藩とともに西南雄藩の旗頭となって活躍し,明治維新の主導権を握った。1871年の廃藩置県によって山口県となったが,この藩の出身者(木戸孝允,伊藤博文,井上馨,大村益次郎,山県有朋ら)はその後もながく政界や軍部で長州閥を形成し,日本の支配層の有力な一翼をなした。
→長州征伐 →倒幕運動 →毛利氏
執筆者:田中 彰
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長州藩
ちょうしゅうはん
江戸時代、周防(すおう)、長門(ながと)の両国を領有した藩。外様(とざま)。萩(はぎ)藩、山口藩、毛利(もうり)藩ともいう。藩主毛利氏はもともと安芸(あき)国吉田(のち広島)を本拠とする戦国大名であり、中国地方8か国を領有する120万石の大名であった。しかし1600年(慶長5)毛利輝元(てるもと)は関ヶ原の戦いに敗れて防長2国に減封された。城を萩に築いて入部した輝元は、領内東部3万7000石を吉川広家(きっかわひろいえ)に分与して岩国領、西部4万7000石を毛利秀元に与えて長府(ちょうふ)藩(豊浦(とよら)藩)、南部2万石を毛利就隆(なりたか)に与えて徳山藩をつくらせた。長府藩はそのうち1万石を割いて清末(きよすえ)藩をつくった。こうして領内に3藩と1領ができるが、これら支藩に対して親である長州藩のことを本藩・宗藩という。1610年、輝元は両国内の総検地を実施し53万石を検出するが、幕府はこれを36万余石と認定し、これが朱印高として藩の公式石高(こくだか)となった。輝元は防長入部時には隠居していたので、初代藩主には秀就(ひでなり)が就任し、こののち綱広(つなひろ)、吉就(よしなり)、吉広(よしひろ)、吉元(よしもと)、宗広(むねひろ)、重就(しげなり)、治親(はるちか)、斉房(なりふさ)、斉煕(なりひろ)、斉元(なりもと)、斉広(なりとう)、敬親(たかちか)と続く。1659年(万治2)、藩府はこれまで公布した法令を取りまとめ、新しく「万治(まんじ)制法」を実施するが、この法令は長州藩の憲法であり、藩制上の基本法となった。また家臣団を再編成し、大組(おおぐみ)6組と船手組(ふなてぐみ)2組を定めた。この組は軍事組織であるとともに、平時は行政組織でもあって、諸般の行政を担当した。この組織の編成に伴い、各組を統括する階級を定めた。すなわち、藩主を補佐する一門両家、各組の長となる寄組(よりぐみ)、各組を構成する大組、大組の下に無給通(むきゅうどおり)、さらにその下に足軽(あしがる)、中間(ちゅうげん)層を置いた。1625年(寛永2)第2回目の検地を実施して本支藩あわせ約66万石、86年(貞享3)本藩領だけの検地で63万石、1761年(宝暦11)本藩領検地で約71万石を検出した。この後の検地は実施されないが、幕末期の内検高は100万石以上と推定される。最後の検地となった宝暦(ほうれき)検地では、小村帳(土地台帳)と小村絵図(地籍図)を作成し、実態の把握に努めた。またこの検地による増徴分を別途会計とし、撫育方(ぶいくかた)という役所を置いて干拓事業や藩専売事業の強化を図った。またこのころから特産品の奨励を行い、紙、塩、蝋(ろう)、木綿などの生産を高める措置をとった。しかし、藩専売制の強化は農民の反対を招き、1831年(天保2)の大一揆(いっき)となった。このため藩政改革を行い、明治維新遂行の道を歩むことになった。
幕末維新期には、尊王攘夷(じょうい)運動の拠点となり、下関(しものせき)戦争、蛤御門(はまぐりごもん)の変、第一次長州征伐を経て、第二次長州征伐(四境(しきょう)戦争)に勝利、薩摩(さつま)藩と連合して討幕運動を進めた。明治新政府には、木戸孝允(たかよし)(桂(かつら)小五郎)、伊藤博文(ひろぶみ)(俊輔(しゅんすけ))、井上薫(かおる)(聞多(もんた))ら多くの人材を送った。なお、1863年(文久3)藩庁を萩から山口に移した。71年(明治4)4月、徳山藩を併合、7月廃藩置県で4県が生まれ、同年11月4県を統合して山口県となる。
[広田暢久]
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ちょうしゅうはん【長州藩】
江戸時代、長門(ながと)国阿武(あぶ)郡萩(はぎ)(現、山口県萩市)と周防(すおう)国吉敷(よしき)郡山口(現、山口市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は明倫館(めいりんかん)。戦国大名の毛利(もうり)氏は中国地方10ヵ国112万石を領有していたが、1600年(慶長(けいちょう)5)、毛利輝元(てるもと)(毛利元就(もとなり)の孫)が関ヶ原の戦いで西軍に加わって敗北、周防・長門の2国36万石余に減封(げんぽう)された。形式的に隠居した輝元に代わって、長男の秀就(ひでなり)が初代藩主となった。輝元は吉川広家(きっかわひろいえ)に岩国領(岩国藩)を、養子の毛利秀元(ひでもと)に長府(ちょうふ)藩(豊浦(とよら)藩)を、次男の就隆(なりたか)に徳山藩をそれぞれ分与。大減封されたことから藩財政は当初から苦しく、そのため1762年(宝暦12)の検地による増加分を財源として翌年に撫育方(ぶいくかた)を設置、これを特別会計として新田開発や紙・蝋(ろう)などの専売制を推し進めたが農民の反発を招き、1831年(天保(てんぽう)2)には大規模な一揆(長州藩天保一揆)が起きた。63年(文久(ぶんきゅう)3)藩庁を萩から山口に移し、山口藩が成立。幕末には尊王攘夷運動の拠点となり、64年(元治(げんじ)1)の四国連合艦隊下関砲撃事件、禁門の変をきっかけに倒幕派が実権を握り、第2次長州征伐では幕府軍に勝利、薩摩藩とともに明治維新を主導した。明治新政府に、木戸孝允(きどたかよし)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、井上馨(いのうえかおる)、山県有朋(やまがたありとも)、大村益次郎(おおむらますじろう)らの人材を輩出。71年(明治4)支藩の徳山藩と合併、廃藩置県により山口県となった。◇萩藩、山口藩、毛利藩ともいう。
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長州藩
ちょうしゅうはん
萩藩,山口藩,毛利藩ともいう。江戸時代,周防国,長門国 (ともに山口県) の2国を領有した大藩。通常,長府,徳山,清末,岩国の4支藩を含めて長州藩と呼ぶ。藩主は代々毛利氏で,元就 (もとなり) を藩祖とする。毛利氏はもと安芸 (広島県) 吉田荘の地頭職で,元就は最初は尼子氏,のちに大内氏に属していたが,大内義隆が家臣の陶 (すえ) 晴賢に滅ぼされると,弘治1 (1555) 年に陶氏を倒し,以後中国 10ヵ国を領有する戦国大名に成長した。孫輝元の代に織田信長の備中経略で備中,因幡の2ヵ国を失うが,本能寺の変後は豊臣秀吉と和してその政権下に五大老の一人として安芸広島を居城に 120万余石を領有した。しかし,関ヶ原の戦いで豊臣方の主将となったので,戦後は周防,長門の2ヵ国 36万 9000石に減封された。居城は萩においたが,明治2 (1869) 年敬親 (たかちか) のとき大内氏の故地山口に藩庁を移した。以後廃藩置県にいたった。外様,江戸城大広間詰。
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長州藩
ちょうしゅうはん
江戸時代,周防 (すおう) ・長門を領した外様藩
萩藩・毛利藩・山口藩ともいう。藩主毛利氏。36万石。戦国時代,毛利元就 (もとなり) が中国地方10カ国を支配。孫輝元が関ケ原の戦い(1600)に敗れ,37万石に減封され,居城を萩に移された。減封後検地を行い,石高を増加。江戸中期以降の藩債の増大は農民を苦しめ,各地で百姓一揆がおこった。天保年間(1830〜44),村田清風らの藩政改革が行われ,財政緊縮・殖産興業・富国強兵の道を歩み,尊王攘夷運動の根源地,討幕勢力の中心となった。明治維新後には薩摩とともに藩閥を形成した。
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長州藩
長門、周防の2か国(現在の山口県)を領有した外様藩。もとは中国筋8か国を有した120万石の戦国大名・毛利氏が、関ヶ原の戦いで西軍に加わり敗北。2か国36万余石に減封されて成立した。輝元は萩に城を置き、領地の一部を一門の者に分与して、東部を岩国藩(岩国領)、西部を長府(ちょうふ)藩、南部を徳山藩とする。幕末には尊王攘夷運動の拠点。第2次長州征伐に勝利し、薩摩藩とともに倒幕運動を進めた。明治政府で活躍した木戸孝允(たかよし)(桂小五郎)、伊藤博文といった政治家は同藩の出身。
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長州藩
江戸時代の萩藩のことを言います。支藩[しはん]は含みません。しかし、江戸時代終わりから明治の初めにかけて、長州藩という場合は、支藩を含めた周防[すおう]・長門[ながと]両国を指します。
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世界大百科事典(旧版)内の長州藩の言及
【大庄屋】より
… 藩領では,幕末まで大庄屋制度を維持したところが多い。長州藩(外様大名)では領内を宰判(幕末には18宰判)という行政区域に分け,宰判ごとに代官と大庄屋を置いた。各宰判はおおむね20~30ヵ村を含み,大庄屋が各村庄屋を統轄した。…
【尊王攘夷運動】より
…幕府はこの勅命に従うことを決定し,63年(文久3)将軍家茂は攘夷の上奏のために京都へ上り,3月,二条城に入った。この間朝廷では,長州藩尊攘派に支持された少壮公卿が,新設された国事御用掛,国事参政,国事寄人など朝廷の意思を決定する機関の主導権を握り,朝議を攘夷決行の方向に導いた。孝明天皇の賀茂社,石清水社への攘夷祈願の行幸も,このような状況の中でおこなわれた。…
【田沼時代】より
…
[西南諸藩の改革と田沼の幕政]
危機的状況にたいして,西南諸藩は幕府より早く対応した。長州藩や熊本藩の宝暦改革などがそれである。これらの諸藩では,藩校の設立・整備と人材登用によって,行政の論理と才能とを整え,年貢増徴のほかに,商人や豪農と結託した殖産興業政策を進め,[藩専売制]や[藩札]制度によって商品経済の果実を藩財政の中に組みこもうとした。…
【俵物】より
…東北諸藩は幕府の統制強化を背景にして領内の流通統制を徹底し,直接生産者(漁民)との対立を激化させたが,西南諸藩は幕府の俵物独占集荷体制を解体させる動きを示した。1807年(文化4)長州藩は俵物からの利益獲得を目ざし,独自の領内統制を行って藩の役場引請制を実施した。このころ,薩摩藩は北国筋の俵物を大規模に密買し,琉球貿易を通して俵物輸出を独自に行った。…
【天保改革】より
…
[諸藩の改革]
幕府の改革と並んで,いくつかの有力な藩でも藩政の危機に際して,独自な改革を断行した。たとえば長州藩では,天保初年に藩専売制に反対する[防長大一揆]が起こり藩政の危機を迎えたが,1838年に中士層に属する[村田清風]を登用して改革に着手した。まず従来の専売仕法を改めて農民からの収奪を緩和する一方,下関など主要な港に越荷方を設け他藩の船に資金を融通して利潤をあげた。…
【倒幕運動】より
…そして,文久3年8月18日の政変や翌1864年(元治1)7月の禁門の変,同年8月の4国連合艦隊の下関砲撃事件,およびこれとほぼ時期を一にして行われた第1次征長等のプロセスで,京都あるいは長州を拠点に展開した尊攘運動は敗北・挫折した。長州藩内では,幕府への恭順を主張する保守派(いわゆる俗論派)が藩権力を握り,第1次征長に長州藩は戦わずして屈伏した。この情勢を一転させたのが1864年末から翌65年(慶応1)初めにかけての高杉晋作らの馬関(下関)挙兵である。…
【長門国】より
…53年(承応2)長府藩主綱元は秀元の子元知へ豊浦郡のうち14ヵ村,高1万石を与え,清末藩を興させた。[長州藩]は郷村支配の行政単位として宰判を設け,長門国では奥阿武,当島,浜崎,美祢,船木,吉田,前大津,先大津の8宰判を置いた。 長門国の北浦では漁業が盛んであったが,中でも鯨漁は漁村に大きな活力を与えた。…
【農兵】より
… 幕府では1849年(嘉永2)伊豆韮山代官[江川太郎左衛門]が農兵取立てを建議したことが知られているが,実現するのはようやく63年(文久3)になってからである。しかし外圧を深刻に受け止めた諸藩では,水戸藩が55年(安政2)に着手し,相模三浦半島東岸の外警の第一線に当たった長州藩も,同年現地に1000人規模の農兵を組織した。農兵は弱体化した幕藩領主の軍事力を補完する役割を担ったのである。…
【萩藩閥閲録】より
…長州藩主毛利吉元が永田瀬兵衛政純に命じて,藩内諸家所蔵の古文書・系譜を編纂させたもの。1720年(享保5)に着手し,6年後に首巻と本文204冊が完成。…
【防長風土注進案】より
…長州藩が天保改革を推進するため,領内の実態の把握を試み,全町村から差し出させた明細書。藩主毛利敬親(たかちか)は領内全域の町村に明細書の提出を求め,当職所に国郡志御用掛を置き,1842年(天保13)[近藤芳樹]にその編纂を命じた。…
【万治制法】より
…長州藩主毛利綱広が榎本遠江就時に命じて,1660年(万治3)から翌年にかけて制定させた同藩の基本法。幕令をもとにしながら毛利元就以来の法令を29編に集大成したもの。…
【明治維新】より
…これが一般的な〈明治維新〉の語の由来の説明である。だが,幕末期長州藩で結成された諸隊のなかの被差別部落民で組織された隊にすでに〈維新団〉とか〈一新組〉とかいう名称がつけられており,彼らの解放の願望がこの〈維新〉や〈一新〉の言葉にはこめられていた,とみられる。その意味で,〈維新〉という語には,幕藩体制下に虐げられていた人びとの解放への思いが秘められていたのである。…
※「長州藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」