下関(読み)シモノセキ

デジタル大辞泉 「下関」の意味・読み・例文・類語

しものせき【下関】

上関かみのせき(山口県熊毛郡上関町)・中関なかのせき防府ほうふ市)に対する称》山口県南西端の市。古くは赤間関(赤馬関)あかまがせき馬関ばかんともよばれた。壇ノ浦などの史跡がある。遠洋漁業の基地。関門トンネル関門橋門司もじと結ばれる。平成17年(2005)2月に豊浦郡4町と合併。人口28.1万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「下関」の意味・読み・例文・類語

しものせき【下関】

  1. 山口県西端の地名。古来大陸との交通の要港となり、豊浦(とよら)宮や長門国の国府が置かれた。江戸時代は米や水産物の取引所を兼ねて繁栄。第二次世界大戦前は関釜(かんぷ)連絡航路で、現在は関釜フェリーで韓国の釜山(プサン)と結ばれている。また、遠洋漁業の基地でもあり、水産加工、造船、金属などの工業がさかん。長門鋳銭所跡豊浦宮跡、壇ノ浦など史跡が多い。明治二二年(一八八九赤間関市として市制施行。同三五年改称。赤間関。馬関。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「下関」の意味・わかりやすい解説

下関(市)
しものせき

山口県西端にある市。古くは赤間関(あかまがせき)(赤馬関)、馬関(ばかん)などとも称し、東の長島の上関(かみのせき)(上関町)に対し下関といった。1889年(明治22)赤間関市として県下最初の市となった。当時の人口3万0739人、面積5.36平方キロメートル。1902年(明治35)下関市と改称。1921年(大正10)生野村、1933年(昭和8)彦島(ひこしま)町、1937年長府(ちょうふ)、安岡の2町と川中村、1939年小月(おづき)町と清末、王司(おうじ)、勝山、吉見の4村、1955年(昭和30)王喜、吉田、内日(うつひ)の3村を編入。2005年(平成17)に菊川、豊田(とよた)、豊浦(とようら)、豊北(ほうほく)の4町と合併、北方に大きく広がり、面積は従来の3倍以上となった。面積716.10平方キロメートル、人口25万5051(2020)。2005年10月中核市に移行。

[三浦 肇]

自然

市域の中部は鬼ヶ城(620メートル)を主峰とする豊浦(とようら)山地とその周辺の丘陵地や盆地が占め、北部と西部の日本海沿岸は入江の多い沈水海岸となっている。南部は瀬戸内海側の木屋(こや)川下流の小月平野を含み、響灘(ひびきなだ)沿岸の綾羅木(あやらぎ)川下流の川中平野や下関、彦島の丘陵地を含む半島状の地域を占める。瀬戸内海の西口である関門海峡を隔てて、北九州と相対しており、朝鮮半島へも近く、海陸交通の十字路にあたる。

[三浦 肇]

歴史

もっとも早く開けたのは綾羅木川下流平野で、弥生(やよい)時代の大集落跡である郷遺跡(国史跡)や長門(ながと)地方最大の前方後円墳の仁馬山(じんばやま)古墳(国史跡)などの遺跡が集中する。豊北町地域にある弥生時代の土井ヶ浜遺跡(どいがはまいせき)(国史跡)からは多数の人骨が出土している。歴史時代に入って内海沿岸の長府が国府の所在地となり、海峡一帯は海関として重視され、長門城が築かれ、鎌倉時代には元寇(げんこう)に備えて長門探題が置かれた。室町時代の赤間関は大内氏の勘合船貿易の港町として栄え、近世には西海、内海の諸航路が集まり、長崎と並ぶ商港として「西の浪華(なにわ)」とよばれた。関門海峡は平安時代に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した地であり、また幕末には長州藩と外国艦隊の戦闘の場となった。

[三浦 肇]

交通・産業

1901年(明治34)山陽鉄道(山陽本線)の開通、1905年の関釜(かんぷ)連絡船の就航によって、大陸貿易の基地としての重要性を増し、さらにトロール船など遠洋漁業の母港としても発展した。北九州重工業地帯の一環として、彦島を中心に金属、化学、造船の諸工場が設置された。1933年(昭和8)には山陰本線が全線開通して山陽本線と連絡、1937~1941年の小瀬戸の締切りと大規模な埋立てにより、大漁港と商港と下関高架駅ができ、国鉄(現、JR)関門海底トンネルが開通(1942)。第二次世界大戦では、二度の空襲で市街地の被災も大きく、戦後の大陸貿易の途絶によって、市勢も一時停滞したが、1958年(昭和33)関門国道トンネルの開通、1961年関釜連絡航路の再開、フェリーの就航によって大陸への基地の地位を回復、1973年高速自動車道関門橋の架橋、1975年山陽新幹線新関門トンネルの完成、新下関駅の開業など新交通時代を迎えて、県西部における商業交通都市としての機能を高めている。中国自動車道、山陽自動車道、国道2号、9号、191号、435号、491号が通る。下関港は国際拠点港湾で、内海側の長府沿岸には広い工場用地があって、金属、電力、造船などの諸工業が集積しつつある。一方、農業でも県下最大級の野菜、花卉(かき)の生産地で、北部の豊北町地域では養牛、養鶏などの畜産、中部の豊田町、豊浦町、菊川町各地域では米作を中心に果樹、野菜栽培が行われ、とくに響灘沿岸の農村では温州(うんしゅう)ミカン栽培が盛んである。

[三浦 肇]

文化財・観光

浄水場のある日和山(ひよりやま)公園やロープウェーで登る火の山公園からの海峡都市の景観、早鞆(はやとも)ノ瀬戸に架かる関門橋、先帝祭で知られる赤間神宮、室町初期の社殿(国宝)をもつ住吉(すみよし)神社、維新史跡の功山(こうざん)寺などの優れた文化財、国史跡指定の長門鋳銭所跡、高杉晋作(しんさく)墓、中山忠光(ただみつ)墓、市立水族館(海響館)など大型の行楽施設もあって、多彩な観光資源をもつ。そのほか、美術館、考古博物館、豊北歴史民俗資料館、烏山(からすやま)民俗資料館など文化施設が多く、下関市立大学も設置されている。港町下関らしいふぐ料理の味覚も全国に知られている。また、壁(かべ)島のウ渡来地、恩徳寺イブキ、川棚(かわたな)のクスの森、小串(こぐし)のエヒメアヤメの自生南限地、木屋川のゲンジボタル発生地が国の天然記念物に指定されている。

[三浦 肇]

『『下関市史』全3巻(1958~1965・下関市)』『『下関市史 増補・改訂版』全13巻(1983~2011・下関市)』



下関
かかん / シヤコワン

中国南西部、雲南(うんなん)省西部にある大理(だいり)市の鎮。人口23万5312(2010)。かつては市であったが、1983年大理県と合併して大理市の一部となった。洱海(じかい)から流出する西洱河の河口にあり、唐代に南詔(なんしょう)の首都大理の南門として重視された。北門は上関である。洱海航路の拠点であるとともに、滇緬(てんめん)自動車道(昆明(こんめい)―瑞麗(ずいれい))、滇蔵自動車道(昆明―ラサ)の両道路の分岐点に位置するため、交通の要地となっている。鎮内には紡織、製油、製紙、自動車組立てなどの工場がある。古くから茶の集散地として知られ、当市で製造される茶は沱茶(だちゃ)と称し、国内・国外に出荷される。西洱河にかかる天生橋、将軍洞、洱海公園などの観光名所がある。

[青木千枝子・河野通博・編集部 2018年1月19日]

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改訂新版 世界大百科事典 「下関」の意味・わかりやすい解説

下関[市] (しものせき)

山口県西端の市。2005年2月旧下関市と菊川(きくがわ),豊浦(とようら),豊田(とよた),豊北(ほうほく)の4町が合体して成立した。人口28万0947(2010)。

下関市中部の旧町。旧豊浦郡所属。人口8203(2000)。北境に長門一の高峰華山(713m)がそびえる。中央部に田部盆地があり,南流する木屋(こや)川に田部川が合流して旧豊浦郡の穀倉地帯を形成している。合流点にある中心集落の田部は萩と下関を結ぶ赤間関街道の市場町として発達した。灌漑用水路網をめぐらした田部盆地では,米作を中心に施設園芸によるメロンの栽培,酪農,養鶏,養蜂が行われる。農業用の歌野川ダムと下関市に工業用水と上水を供給する湯の原ダムがある。法輪寺にある虚空蔵菩薩は農耕の仏として地元の信仰を集めている。
執筆者:

下関市南部の旧市。関門海峡をへだてて北九州市と相対する海陸交通の要地。1889年市制。人口25万2389(2000)。当初,赤間関(あかまがせき)市と称し,県内最初の市であったが,1902年下関市と改称した。響(ひびき)灘沿岸の綾羅木(あやらぎ)川下流には弥生時代の綾羅木郷遺跡や前方後円墳仁馬山(じんばやま)古墳をはじめ多くの遺跡があり,古代条里制の遺構も残っている。長門国府は内海側の長府におかれ,中世にもここに長門警固所があった。関門海峡は平安時代末の壇ノ浦の戦や幕末の長州藩による外国艦隊砲撃の舞台であり,この海峡に臨む港町赤間関は,近世を通じて長崎と並ぶ商港として栄えた。明治以降は大陸貿易,遠洋漁業の基地となり,北九州工業地帯の一環として諸工業が興り,急速な都市的発展を遂げた。JR山陽本線,国道,山陽新幹線がいずれも海底トンネルで関門海峡を通過し,1973年には中国自動車道(2001年山陽自動車道宇部下関線と接続)も関門橋によって九州と結ばれたため,下関の交通都市的機能は弱まったが,韓国釜山との間に関釜(かんぷ)フェリーが就航するなど新たな役割をになっている。彦島・安岡・王喜では野菜・花卉を中心に近郊農業が発達しており,工業は彦島と長府を中心に食品,化学,金属,造船業などが盛ん。下関漁港は底引網漁業の根拠地として知られ,フグ(水揚全国の80%),ウニ,かまぼこ類の特産がある。瀬戸内海国立公園の西端部に含まれ,多彩な観光資源をもつが,関門海峡を見下ろす火ノ山公園からの景観は特に優れている。住吉神社,赤間神宮,功山寺などのすぐれた史跡のほか,旧英国領事館や水族館,高さ143mの海峡ゆめタワーもある。響灘沿岸の垢田海岸沖に人工島〈ひびっくらんど〉(現,〈長州出島〉)が建設された。
執筆者:

下関市西部の旧町。旧豊浦郡所属。人口2万0499(2000)。響灘に面し,東部は中生代の山地,中央部が低い花コウ岩の丘陵と沖積地からなる。南西部の平地は農業地域であるが,水が乏しいため多くの溜池がつくられている。響灘沿岸には宇賀(うか),小串(こぐし),川棚,涌田(わいた),室津の漁村がある。町の中心は役場のある山陰本線川棚温泉駅前で,付近に川棚温泉がある。青山丘陵に旧石器時代の磯上遺跡,中ノ浜に弥生時代前期の埋葬遺跡があり,青井古墳群,甲山古墳群など古墳も多い。小串のエヒメアヤメ自生南限地帯,川棚のクスの森,大吼谷蝙蝠洞(おおごうやこうもりどう)は天然記念物,安養寺の阿弥陀如来座像は重要文化財に指定されている。

下関市北東部の旧町。旧豊浦郡所属。人口6882(2000)。南東部を瀬戸内海に注ぐ木屋川が南流し,北部は日本海に注ぐ粟野川流域を占める。中心地の西市は木屋川の沖積平野に開けた市場町で,古代から中世にかけて豪族豊田氏の本拠地であった。山口と響灘沿岸を結ぶ肥中街道,山陽と山陰を結ぶ赤間関街道が交差する地で,近世には宿場町としても栄えた。農林業が中心で,梨,イチゴの栽培,酪農,養鶏が行われる。町の南西部と北東部は豊田県立自然公園に指定され,西の高野山といわれる神上寺のある華(げ)山や狗留孫(くるそん)山(名),石柱渓(天・名)や木屋川ゲンジボタル発生地(天)がある。

下関市北西部の旧町。旧豊浦郡所属。人口1万3124(2000)。北は日本海,西は響灘に面し,海士ヶ瀬戸(あまがせと)をはさんで角(つの)島がある。町の東部を粟野川が北流し,谷底平野が開ける。中心地の滝部は古くからの市場町で,近世から第2次大戦前まで牛馬市や農漁村の労働力を斡旋する奉公市が開かれていた。農漁業が主産業で,ミカン,梨,イチゴの栽培,酪農,養鶏が行われる。漁業はイワシ,ブリ,イカ漁などが中心で,水産加工も行われる。弥生時代の集団墓地土井ヶ浜遺跡(史)や恩徳寺の結びイブキ(天),壁島ウ渡来地(天)があり,角島や屈曲に富む海岸線は西長門県立自然公園に指定されている。JR山陰本線が通じる。
執筆者:


下関 (かかん)
Xià guān

中国,雲南省西部の市,大理ペー(白)族自治州の主都,洱海(じかい)南岸にある州の経済・文化の中心。漢の武帝は洱海地域に葉楡(ようゆ)県を設置,8世紀南詔が支配し,太和城を築いた。城の南北に竜尾関,竜首関を設置,それぞれ下関,上関と別称された。10世紀には大理国をへ,下関の地域は元以降太和県として発展した。1913年大理県に改称,51年鳳儀県をあわせ下関市とした。一時大理市と称したが,62年再び下関市となった。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「下関」の意味・わかりやすい解説

下関[市]【しものせき】

山口県西端の市。1889年赤間関(あかまがせき)市として市制,1902年改称。中心市街は古くは赤間関と称した関門海峡に臨む要港で,江戸中期からは内国海運の中継地として栄えた。明治以後は九州や大陸とを結ぶ交通の中心地として発展した。しかし1942年関門鉄道トンネル,1958年国道トンネル完成から始まる一連の広域高速交通網の整備により,かつての交通拠点としての地理的優位性を失いつつある。山陽新幹線,山陽本線,山陰本線,中国自動車道,関門自動車道が通じ,下関港には国際フェリーターミナルがある。現在,新幹線新下関駅を中心に市街地整備,北浦沖合いの人工島建設が進められている。フグの水揚げは日本一をほこるが,主産業である水産業は不振。工業は彦島地区を中心に輸送用機器,食品,金属などがある。赤間石でつくる赤間硯は特産。先帝祭で知られる赤間神宮壇ノ浦,六連(むつれ)島の雲母玄武岩(天然記念物),火の山公園,高杉晋作の墓(史跡),川棚温泉などがある。2005年2月豊浦郡菊川町,豊田町,豊浦町,豊北町を編入。715.89km2。28万947人(2010)。
→関連項目ふく料理

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世界大百科事典(旧版)内の下関の言及

【長府】より

…現在の山口県下関市大字豊浦町を中心とした地域の地名。〈長府〉の名は律令制の〈長門国府〉をちぢめた呼称で,中世後期から使用されたと思われる。…

【山口[県]】より

…弥生時代人骨を出土した土井ヶ浜遺跡,西日本最大級の弥生時代集落址として有名な綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡の存在も,この地域の文化が先進的であったことを示している。《日本書紀》に見える仲哀天皇の穴門豊浦(あなととよら)宮は,大和朝廷による九州経略の基地となったところで,下関市長府の忌宮(いみのみや)神社境内がその故地と伝えられている。さらに古代の終焉を告げた源平最後の壇ノ浦合戦の舞台となったのも,下関市の関門海峡であった。…

※「下関」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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