改訂新版 世界大百科事典 「馬関戦争」の意味・わかりやすい解説
馬関戦争 (ばかんせんそう)
1864年(元治1)8月,イギリス,フランス,アメリカ,オランダの4国連合艦隊が下関の砲台を攻撃し,攘夷派を屈服させた事件。四国艦隊下関砲撃事件ともいう。1863年(文久3)攘夷期日を5月10日とする朝命を実行すべく,長州藩は下関(馬関)海峡で外国船を砲撃した。その後8月18日の政変によって,尊攘派の中心であった長州藩が京都から追放されたが,朝廷内外の攘夷勢力はなお勢力を保っていた。また貿易も衰退し,生糸貿易は64年6月には事実上の停止状態にあった。ヨーロッパ列強の先頭に立ったイギリス公使オールコックは,列強の軍事力の圧倒的優位を示し,また貿易をとり戻すために,フランス,アメリカ,オランダを軍事行動に合意させた。イギリスのキューパー提督を総指揮官とする艦隊は,イギリス9隻,フランス3隻,オランダ4隻,アメリカ1隻を集め,総艦数17隻,砲288門,兵員5014名に達し,64年8月2日夜,豊後水道北の姫島沖に集結した。長州藩兵力は奇兵隊の守る前田砲台や城山砲台,弟子待(でしまつ)砲台に拠り,砲数70門余にすぎなかった。長州藩ではイギリス留学中を急ぎ帰国した井上聞多(馨)と伊藤俊輔(博文)が調停に努めたが成功せず,8月5日に戦闘が開始された。優勢に立ったヨーロッパ連合軍は陸戦隊2000名を前田砲台や下関市街周辺に上陸させ,砲台を破壊し,あるいは奪い取り,3日間で戦闘が終了した。長州藩は高杉晋作を起用して14日に調停が成り,海峡通航の外国船保護,砲台の武装解除,下関市街を焼き払わなかった償金の支払,償金支払を幕府と列国の交渉に任すことが合意された。この事件によって長州藩の改革的勢力は一時後退したが,攘夷派が決定的な打撃を受け,やがて開国論が政府の主流となり,またヨーロッパとの軍事力の違い,軍艦・火砲の威力,さらに長州藩兵のなかで士気が上がったのは奇兵隊など諸隊だけであったことなどが深刻に認識され,慶応期の画期的な軍制改革の伏線となった。
執筆者:井上 勝生
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報