四谷村(読み)よつやむら

日本歴史地名大系 「四谷村」の解説

四谷村
よつやむら

[現在地名]座間市四ッ谷よつや小松原こまつばら一―二丁目

相模川の東にあり、北は新田宿しんでんじゆく村、南は下今泉しもいまいずみ村・上之郷かみのごう(現海老名市)と接し、東ははと川を隔てて、宿しゆく村・入谷いりや村に対する。皇国地誌によると、永禄七年(一五六四)織田信長に滅ぼされた美濃の斎藤竜興の部下であった川島・佐藤両氏が、元亀二年(一五七一)に当村へ来て二戸ずつ荒地を開拓して居住し、四ッ家と称したのが村名の起りだという。正保国絵図には「四ツ屋」、元禄国絵図には「四ツ谷村」とある。元禄一一年(一六九八)旗本森川・戸田・高木領の三給。検地は慶長八年(一六〇三)検地高五一・六九石、正保三年(一六四六)九八・四九九石、寛文一〇年(一六七〇)二四六・九三一石であった。


四谷村
よつやむら

[現在地名]東村四ッ谷よつや

利根川左岸の低地にあり、北は手賀てが新田、東は六角ろつかく村。弘化二年(一八四五)の関東御取締役控帳(香取郡誌)によれば津藩領で、大貫おおぬき(現千葉県香取郡神崎町)外一四ヵ村組合に属し、村高二一八石余、家数二一。


四谷村
よつやむら

[現在地名]伏見区向島四ッ谷池むかいじまよつやいけ

巨椋おぐら池中に浮かぶ向島にあり、向島村と隣接する。豊臣秀吉によって築堤された槇島堤(宇治堤とも)沿いにある堤防集落。江戸時代の村高は二〇〇石、旗本の高井作左衛門が知行していた(享保一四年山城国高八郡村名帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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