四軒在家村(読み)しけんざいけむら

日本歴史地名大系 「四軒在家村」の解説

四軒在家村
しけんざいけむら

[現在地名]神川町四軒在家

四間在家とも記す。北は長浜上郷ながはまかみごう村、東は大御堂おおみどう(ともに現上里町)、南は元安保もとあぼ村、西は神流かんな川を隔て上野国緑野みどの小林こばやし(現群馬県藤岡市)中世には長浜郷の内とされ、伊東兵庫之助美濃入道信祐の開発と伝える(風土記稿)。慶長九年(一六〇四)六月代官頭伊奈忠次による検地が行われ、田一二町八反余・畑一二町四反余・屋敷六反余(「検地帳写」松原家文書)。寛永年中(一六二四―四四)市川孫右衛門が新田検地を実施し、新田畑が高入れされたが、寛永検地帳は焼失して伝存しない。田園簿に四間在家村とみえ、田方五九五石余・畑方一三〇石余、旗本日向・蜂屋(八屋)植村の三家の相給。元禄郷帳・天保郷帳では高三二五石余となっているが、この間に村の分離・統合が行われたと考えられる。四軒在家の村方文書のなかに長浜村(現上里町)関係の年貢割付状(松原家文書)が何本も入っていることは、近世に入っても未分離の部分があったことを推測させるが、慶安二年(一六四九)の「安保領四間長浜村」と記された文書(松原家文書)に高一千五四三石余とあり、旗本八屋・日向・植村・美濃部内藤・室賀の六家の名があげられている。

四軒在家村
しけんざいけむら

[現在地名]新田町村田むらた市野倉いちのくら

北・東は小金こがね村、西・南は村。寛文年間(一六六一―七三)笠懸野かさかけの開発により成立した新田村。元禄一〇年(一六九七)笠懸野新田絵図(片山家蔵)には田村と一括されて「四軒在家新田」と記され、民家五軒が描かれる。幕府領。日光例幣使街道木崎きざき宿の定助郷を勤め、明和三年(一七六六)助郷高一七一石八斗(「木崎宿助郷帳」中島文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報