日本大百科全書(ニッポニカ) 「国定忠治」の意味・わかりやすい解説
国定忠治
くにさだちゅうじ
(1810―1850)
江戸後期の博徒(ばくと)。上野(こうずけ)国佐位(さい)郡国定村(群馬県伊勢崎市国定町)の旧家、長岡与五左衛門(よござえもん)の長男。19歳のころから博奕(ばくち)に手を出し、21歳のとき百々(どど)村(伊勢崎市境百々(さかいどうどう))の紋治から縄張りをもらう。博奕渡世頭取(とせいとうどり)、差配(さはい)などと称して縄張り内の賭場(とば)から寺銭(てらせん)をとり、無届けの賭場を荒らして金銭を奪い取った。田部井(ためがい)村(伊勢崎市田部井町(たべいちょう))の溜池(ためいけ)ざらいのとき名主の宇右衛門(うえもん)と共謀して、集めた人足に小屋掛けの賭場で博奕をさせ、寺銭の上前をはねたりもした。関東取締出役(とりしまりしゅつやく)の追及を受け何度も赤城(あかぎ)山中に隠れたが、1842年(天保13)9月、忠治処刑の罪状の一つでもある大戸(おおど)(吾妻(あがつま)郡東吾妻町大戸)の関所を破り信濃(しなの)国(長野県)に逃げ込んだ。その後国定村に戻ったが、50年(嘉永3)7月、妾宅(しょうたく)で倒れ中風となり、宇右衛門にかくまわれているところを密告されて捕らえられ、同年12月、磔(はりつけ)になった。忠治の墓は長岡家の菩提寺(ぼだいじ)、伊勢崎市国定町の養寿寺にあり、忠治寺として遺品も残っている。今日、映画、講談、浪曲などで描かれる忠治像は民衆の味方のように扱われているが、それらはいずれも虚構である。忠治を題材とする戯曲としては、新国劇の極め付きとなった行友李風(ゆきともりふう)作『国定忠治』(1919)、真山青果(まやませいか)作『国定忠治』(1932)、新しい観点での忠治像を打ち出した村山知義(ともよし)作『国定忠治』(1957)などが有名である。
[藤野泰造]
『今川徳三著『考証幕末侠客伝』(1973・秋田書店)』