劇作家,演出家,また画家,舞台装置家でもあった。東京神田生れ。東大哲学科中退,1922年渡欧,表現主義,構成主義などドイツ前衛芸術を学ぶ。24年築地小劇場のG.カイザー作《朝から夜中まで》の舞台装置を担当,25年池谷信三郎,河原崎長十郎らと心座を結成,しだいに社会主義に傾いた。26年佐野碩,千田是也らと前衛座を創立し,28年ナップ結成に応じた左翼劇場第1回公演に自作《進水式》の演出・装置を手がけ,プロレタリア演劇運動の中心として活躍した。代表作に《暴力団記》(1929)がある。検挙入獄の後,転向小説《白夜》(1934)が注目され,34年〈新劇団大同団結〉を提唱して新協劇団を創立,40年の解散まで《夜明け前》以下の脚色演出に,リアリズム演劇運動を指導した。敗戦後は新協劇団を再建したが,戦前の力はなく,分裂を経て59年劇団中芸と合同,東京芸術座となった。多くの脚色演出のほか,《死んだ海》(1952),《国定忠治》(1957)などの戯曲や長編小説《忍びの者》(1962)があり,新派,歌舞伎の演出も多い。膨大な《演劇的自叙伝》(1970-74)がある。
執筆者:永平 和雄 村山はベルリン留学中に画家を志し,1923年に帰国後直ちに前衛美術家集団三科インデペンデントに参加,タトリンに学んだ意識的構成主義を唱え,柳瀬正夢(まさむ),尾形亀之助,門脇晋郎らとMAVOを結成した。そして24年には三科造型美術協会設立に参加,MAVOは発展的解消をとげる。この間,芸術全般にわたるダダ的な運動を展開しダダ的構成主義を強く推進,大正期の前衛芸術運動の帝王とも呼ばれた。また昭和初期には,《コドモノクニ》を中心に児童雑誌の挿絵を手がけたが,従来の〈童画〉のもつ感傷性を排除し,知的で構成主義的な作品を多く送っている。
執筆者:三輪 英夫
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大正・昭和期の劇作家,演出家,画家,小説家
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演出家、劇作家、小説家、画家。明治34年1月18日東京に生まれる。1921年(大正10)第一高等学校を卒業して東京帝国大学哲学科に入学するが、翌年中退してベルリンに留学。同地で画家に転じて、コラージュによる『あるユダヤ人の少女像』『美しき少女に捧(ささ)ぐ』などを制作。23年の帰国後ただちに「意識的構成主義」を主張し、柳瀬正夢(やなせまさむ)らと「マヴォ」を結成、前衛美術家として活躍した。24年築地(つきじ)小劇場のカイザー作『朝から夜中まで』の舞台装置で注目され、演劇界に入る。26年、マルクス主義的な劇団前衛座の結成に参画し、31年(昭和6)には非合法下の共産党に入党。この期のプロレタリア演劇の代表的戯曲『暴力団記』(1929)、『志村夏江』(1932)を発表。32年に検挙され、翌年保釈出獄。34年に転向小説『白夜』などを発表。また新劇団の大同団結を提唱して、新協劇団の創設に参画、その指導者として活躍したが、40年8月再検挙された。第二次世界大戦後は46年(昭和21)に新協劇団を再建、59年に薄田研二(すすきだけんじ)の劇団中芸と統一して東京芸術座を結成、主宰した。ほかに『忍びの者』(五部作)などの小説、『夜明け前』の脚色、新協劇団が契約したPCL映画へのシナリオ・演出など、活躍は多方面にわたった。昭和52年3月22日没。
[祖父江昭二]
『『村山知義戯曲集』全二巻(1971・新日本出版社)』▽『村山知義著『演劇的自叙伝』全四巻(1970~77・東邦出版社)』▽『『現代日本文学大系58』(1972・筑摩書房)』▽『『村山知義の美術の仕事』(1985・未来社)』
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…明治末期以来,新派俳優中で最も進歩的行動をとってきた井上正夫が,1936年4月,村山知義を協力者として創設した劇団。芸術的な大衆演劇の創造を目標にしたのを,新派と新劇のあいだを行く〈中間演劇〉と評された。…
… ついで大正中期に模範家庭文庫を出した冨山房で,楠山正雄の《画(え)とお話の本》3冊(1925‐26)を出したが,その画家たちは,大正中期に輩出した絵雑誌のプールに負っている。1914年に《子供之友》,21年に《コドモノクニ》,23年に《コドモアサヒ》が出て,岡本帰一,清水良雄,武井武雄,川上四郎,初山滋,村山知義,本田庄太郎たちがそれらによって活躍した。武井武雄は,彼と彼の影響に立つ画家たちの様式性の強い画風を立てて,24年に童画と呼ぶに至り,27年に日本童画家協会を設立,対立的に新ニッポン童画会もできたが,両会とも写実をもたない安易な類型に陥ったにすぎなかった。…
…戦争で手を汚さなかった教授陣を集め,文部省の中央集権的教育統制の外で,民主主義的な男女共学により,教授と学生とがお互いに鍛え合う学びの場をつくることを目ざした。初代校長飯塚友一郎の後をうけた三枝博音校長の下の陣容は,学監服部之総,教務課長菅井準一,文学科長林達夫,演劇科長村山知義,映画科長重宗和伸,産業科長早瀬利雄,図書部長片岡良一。のちに横浜市戸塚区小菅谷の旧海軍燃料廠に移転したが,財政難にアカの風評が重なり,50年9月に廃校となった。…
…西欧の構成主義は,その後パリの〈抽象,創造〉グループを経て,第2次大戦後のコンクリート・アート,キネティック・アート,オップ・アートにつながっている。日本には村山知義が23年にドイツから帰国して構成主義を伝え,31年開設の〈建築工芸研究所〉(東京銀座)では川喜田煉七郎(1902‐75)らが構成主義の造形教育を始めたとされる。しかし,前者はダダの傾向が強く,後者ではカンディンスキーの造形教育が中心となっており,ロシアの構成主義とはやや異なるものであった。…
…この第1作のヒットを受け,その後の石川五右衛門を描く形で,同じ山本薩夫監督の第2作《続・忍びの者》(1963),森一生監督の第3作《新・忍びの者》(1963)がつくられた。以上3作品は,《赤旗》に連載された村山知義の小説が原作で,実証的リアリズムはこの原作に基づいている。だが,田中徳三監督による第4作《忍びの者・霧隠才蔵》(1964)以降は,虚構の人物が主人公になった。…
…劇団名。1934年左翼劇場の解散など,弾圧を受けるプロレタリア演劇運動の危機のなかで,新劇団の大同団結を提唱する村山知義(ともよし)の呼びかけに応じ,旧左翼劇場のメンバーを中核に新築地劇団からの参加者も加えて組織された。文芸・演出部の村山,久保栄(さかえ)を中心に,滝沢修,小沢栄太郎,細川ちか子(1905‐76),三島雅夫(1906‐73)らの演技陣によって,島崎藤村原作《夜明け前》,久保栄作《火山灰地》,久板(ひさいた)栄二郎作《北東の風》,真船(まふね)豊作《遁走譜(とんそうふ)》など社会主義リアリズムの力作を次々に上演し,第2次世界大戦前の新劇活動において一時期を画したが,40年8月19日,関係者の一斉検挙にあい,国家権力により強制的に解散させられた。…
…まず,1921年3月,労働運動家平沢計七の〈労働劇団〉が結成され,それに続く一群のプロレタリア演劇活動の高まりがあった。続いて28年4月には〈東京左翼劇場〉が村山知義らの政治性の強いアピール劇で第1回公演を持ち,34年2月まで活動を続けた。また築地小劇場解散後,土方与志らは〈新築地劇団〉を結成し,1929年5月,金子洋文の戯曲などで第1回公演を持ち,40年の強制解散時まで活動を続けた。…
… ダダの運動はそのほかイタリア,ロシア,スペイン,オランダ,ハンガリーにも波及した。日本でも1923年,高橋新吉の《ダダイスト新吉の詩》の刊行やダダに接近したアナーキストの詩誌《赤と黒》の創刊がみられ,その後,ドイツ帰りの村山知義を中心に,〈街頭へ,広場へ,絶望へ,虚無へ,アトムの転換へ!〉を合言葉とした《マボMavo》の創刊(1924),〈未来派〉〈アクション〉〈マボ〉グループの公募展〈三科会〉への合流,村山知義の詩,美術,演劇,舞踏を合成した〈劇場の三科〉などが続いたが,その熱気もアナーキズムが共産主義に再編される過程で数年で消えた。 リヒターによれば,〈ダダには綱領がないだけでなく,徹頭徹尾反綱領的であった。…
※「村山知義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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