劇団名。1917年4月,芸術座を脱退した沢田正二郎を中心にして,倉橋仙太郎,金井謹之助,田中介二,渡瀬淳子らによって結成された。東京新富座での第1回公演に岡本綺堂,松居松葉(しようよう)の戯曲を上演したが,興行的には不調に終わり関西に去った。関西で松竹の白井松次郎に拾われ,京都南座,大阪角座などに出演するが,舞台に迫真的な立回りを取り入れてしだいに観客の喝采を得るようになり,19年には新たな座付作者行友李風(ゆきともりふう)(1877-1959)の《月形半平太》で大当りをとった。続いて同じく行友の《国定忠次》も成功し,テンポの早い演技と激しい立回りで,剣劇という一ジャンルをつくり,関西劇界を席捲した。沢田の目標は歌舞伎と新劇の中間を行くような新しい大衆演劇の樹立にあり,〈民衆と握手せよ,而して片足のみは不断に民衆より半歩を進めよ〉と〈演劇半歩主義〉を主張した。21年には上京して,明治座での公演にも成功,本拠を浅草公園六区の公園劇場に移し,〈沢正(さわしよう)〉の名は剣劇の評判とともについに日本中に知られるようになった。24年に金井,田中らが沢田の相手役として活躍していた女優の久松喜世子(きよこ)(1886-1977)と対立して退団,翌年には渡瀬淳子が離れたが,高田保脚色《白野弁十郎》(《シラノ・ド・ベルジュラック》の翻案・脚色),真山青果《桃中軒雲右衛門(とうちゆうけんくもえもん)》などで大衆劇の新境地を開き,前進を続けた。しかし,29年3月4日に沢田が急死,劇団は一時,危機に見舞われるが,若い島田正吾(1905-2004)と辰巳柳太郎(たつみりゆうたろう)(1905-89)の抜擢が功を奏して人気を呼び,引き続き劇界に確固たる地位を占めた。第2次世界大戦中は吉川英治原作の《宮本武蔵》などで切り抜け,戦後は北条秀司(ほうじようひでじ)(1902-96)の《王将》《霧の音》などの名作を得て人気を保ってきたが,創立50周年を迎えたころから,大幹部の島田,辰巳の高齢化,若手の脱退で衰退にむかい,79年9月,株式会社新国劇は倒産。往年のような形での劇団再建は困難になっている。
執筆者:野村 喬
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劇団名。1917年(大正6)沢田正二郎を盟主として創立された大衆劇団。新国劇の名は、それまで新劇の舞台に立っていた沢田がこれに飽き足らず、より広範な一般大衆に親しまれる「新しい国劇」を目的としたのによる。同年4月松竹の協力で東京の新富座で旗揚げ公演をもった。しかし興行的には失敗し、関西に移り、京都・南座でも不入りであったが、7月の大阪・角座(かどざ)の公演は、沢田が考案したリアルな立回りで評判をとった。松竹大阪が弁天座を根城に沢田売出しに力を入れ、沢田も「邪劇(じゃげき)」と自嘲(じちょう)する大衆劇への徹し方でたちまち活況を呈し、京都で座員8名であったのが翌18年には120名に膨張。行友李風(ゆきともりふう)を座付作者に迎え、『春告鳥』『月形半平太』『函嶺夜話』『国定忠治(くにさだちゅうじ)』などで基礎を固めた。21年(大正10)東上して明治座で公演、創立時の失敗を雪辱する。沢田は半歩前進主義を唱え、「右に芸術、左に大衆」をモットーに硬派の演劇と大衆的な剣劇で劇団は順調に発展していった。23年浅草公園劇場出演中、座員が円座になってすしを食べているのを賭博(とばく)行為と誤解した警官とのトラブル(象潟(きさかた)事件)に続いて関東大震災。直後に日比谷(ひびや)の野外音楽堂で『地蔵教由来』『勧進帳』ほかを市民慰安として公演し成功を収め、その後も帝国劇場などに進出して新国劇の全盛時代を築いたが、29年(昭和4)に沢田が急死。
座長の死後一時期難関にたたされたが、青年俳優の島田正吾(しょうご)と辰巳(たつみ)吾作(辰巳柳太郎)が抜擢(ばってき)されて、劇団の再建は順調に進み、大劇場公演も定着していった。島田は『白野弁十郎(しらのべんじゅうろう)』『沓掛時次郎(くつかけときじろう)』、辰巳は『国定忠治』という師の当り狂言を受け継ぐほか、長谷川伸(はせがわしん)の股旅物(またたびもの)を加え、一方では北条秀司(ひでじ)ら現代劇作家とも提携、『王将』は辰巳、『霧の音』は島田の代表作となった。1967年(昭和42)には創立50周年を迎え、大山克巳(かつみ)、緒形拳(おがたけん)を中心とする新体制を出発させた。しかし、緒形の退団ほか悪条件が重なり、劇団運営が円滑にいかないまま、79年株式会社新国劇が倒産。島田・辰巳を中心に公演活動が細々と再開されてきたが、劇団創立70周年記念公演終了後の87年(昭和62)9月解散した。
[藤田 洋]
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大正・昭和期の劇団。1917年(大正6)沢田正二郎が,従来の演劇にない広い範囲の人々を対象とした新しい国民劇をつくりだそうという意図から組織。沢正とよばれた沢田の圧倒的力量と剣劇の魅力によって人気を高めた。29年(昭和4)沢田の死後は,辰巳柳太郎と島田正吾を中心に演目を広げ,上質な大衆劇をうみ,60年頃まで隆盛を誇ったが,以後人気を失い,87年創立70周年を機に解散した。
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…俗に〈ちゃんばら〉ともいわれた。1918年(大正7)ころ〈新国劇〉の創始者沢田正二郎が新しい国民大衆劇樹立を意図して進んでいるうちに,《月形半平太》《国定忠治》などの剣闘場面で写実的な緊迫感のある立回りの手を案出し,それが大阪の大衆に迎えられて新国劇の躍進はめざましくなるとともに,剣をふるう人物を主役にした脚本が相次いであらわれて〈剣劇〉の名がつけられた。その後〈剣劇映画〉の名が起こったように時代劇映画への影響は大きく,阪東妻三郎,大河内伝次郎,林長二郎(長谷川一夫),市川右太衛門,片岡千恵蔵らが剣劇映画俳優として人気を呼んだ。…
…俳優,劇団新国劇の創立者。滋賀県大津市に生まれ,東京で育った。…
…こうして経済基盤をつくり,新劇の大衆的普及と芸術的研究上演の二元体制を同時進行させる劇団体制をつくりだしたものの,18年冬,抱月は急逝し,翌19年正月,須磨子は抱月の後を追って縊死を遂げ,第1次の芸術座活動は終わった。 一方,それ以前に芸術座を脱退していた沢田正二郎らは新しい国劇樹立をはかって1917年に〈新国劇〉を結成,ドストエフスキーの《罪と罰》やドイツ表現派のカイザー作《カレーの市民》を本邦初演したが,それらの試みは成功せず,劇団基盤は大衆的娯楽性の強い剣劇によって獲得されていった。 関東大震災前の大正期の新劇は,総じて,芸術座や新国劇のような大衆的娯楽性を創出することによって劇団活動の自立と持続をはかっていた。…
…1929年(昭和4),総帥の沢田正二郎が急死して危機にあった新国劇のために長谷川伸が書き下ろした戯曲で,8月,帝国劇場で初演され好評を博した。主人公の関の弥太郎は,のちに島田正吾の当り役になった。…
※「新国劇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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