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油絵 あぶらえoil painting

翻訳|oil painting

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

油絵
あぶらえ
oil painting

顔料を溶かす媒剤としてリンシード油を用いる絵画。テンペラ画,フレスコ画と異なり,流動性,輝きの表現,写実的描写に適合する技法としてルネサンス期以来絵画技法の主体となり今日にいたる。 16世紀以来,カンバスが用いられることが多いが,板,カルトンも用いられる。伝説的にはファン・アイクによってこの技術が発明進歩させられたというが,技術的にはそれ以前から知られ,またファン・アイクはむしろテンペラの技法により多く依存している。初期フランドル派によって使用されはじめたこの技法を,イタリアで最初に用いたのはアントネロ・ダ・メッシナで,彼が媒剤のための油をつくったのは 1460年とされる。

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百科事典マイペディアの解説

油絵【あぶらえ】

油彩画とも。oil painting。顔料を油で練り合わせた絵具を使用するもので,4世紀からその例が見えるが,15世紀にファン・アイクがこの技法によって高度の芸術性を実現して以後,西欧絵画の主導的技法となった。
→関連項目テンペラ浜口陽三棟方志功

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世界大百科事典 第2版の解説

あぶらえ【油絵 oil painting】

顔料を亜麻仁油その他の植物性乾性油を主成分とする展色剤で練り合わせてつくった絵具(油絵具)で描いた絵画。絵具にはこのほかに,ダンマル,コーパル,アルキド等の天然または合成樹脂類,蠟類,金属セッケン,微量の乾燥促進剤などが加わっている。樹脂類は造膜力の補強やつやの改善,蠟・金属セッケンは絵具の粘りやこくなど使いやすさの調整に使う。絵具は乾性油が空気中の酸素を吸収し,樹脂に似た立体的な網構造をつくって固化する。

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大辞林 第三版の解説

あぶらえ【油絵】

西洋絵画の一種。油絵の具で、木の板やカンバスなどに描いた絵。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

油絵
あぶらえ

油絵の材料技法と様式には、時代や地域および流派によって実に多様な変化がみられる。しかし端的に定義すれば、乾性油を主体としたメディウムを用いて粉末顔料(がんりょう)を練り合わせた絵の具を油絵の具といい、この油絵の具を使用して描く絵画技法あるいは絵画作品を油絵(油彩画)ということができる。乾性油とは、液体の油を薄い層にして塗布した場合、空気中の酸素を吸収して酸化し、しだいに粘着性を失って乾燥し、柔軟性と透明性のある固体の物質に変化する性質をもつ植物性油である。顔料の練り合せ材(メディウム)は、絵の具の状態では描画に適した流動性を保ちつつ顔料の粒子をつなぎ合わせ(膠着(こうちゃく)材、展色材)、画面においては色彩を変化させずに強固な絵の具層を形成しなければならない。乾性油はそのような要求を満たすばかりではなく、天然樹脂などを混ぜ合わせて多様な仕上げの効果を追求することも可能であった。また、テレピンやラベンダーなどの揮発性精油を溶材(溶き油)として使用すれば、絵の具の濃淡や絵の具層の厚さの調整をすることもできる。油絵のメディウムとしてもっとも一般的な乾性油は、あまに油(リンシード・オイル)、けし油(ポピー・オイル)、くるみ油である。ロシアではひまわり油が用いられたといわれる。15世紀のフランドルにおいて乾性油を主体にしたメディウムを用いる技法が確立されて以来、この油絵技法はヨーロッパ各地に広まり、20世紀に至るまで主要な絵画技法としてもっとも広く使用されてきた。美術の材料技法と様式にはきわめて密接で重要な関係があることはいうまでもない。油絵技法の発展の歴史は、ヨーロッパ絵画史の豊かな成果と切り離して考えることはできない。[長谷川三郎]

油絵の歴史

油絵の起源は、乾性油が美術工芸品になんらかの形で塗料の材料に使用され始めたときにさかのぼることができる。乾性油そのものについていえば、1世紀のローマの植物学者ディオスコリデスがすでにくるみ油とけし油について記しているが、これは医薬品としての乾性油である。美術工芸品に乾性油が使用されたことを記しているもっとも古い例は、ギリシア人の医者アエティウス(502―575)の著した医学書である。彼は、「クルミの実を突き砕くか圧搾し……熱湯に入れて」つくったくるみ油が、医薬用のほかに「金箔(きんぱく)職人やエンカウスティック画家に使用された。くるみ油は乾燥し、金箔やエンカウスティック画を長期間にわたって保護するからである」と述べている。これは、乾性油が保護膜のワニスとして使用されていたことを意味しているが、油やワニスに黄色を混ぜたグレーズ(メディウムの多い薄く透明な被膜)を、銀箔や錫(すず)箔の上にかけて金箔のように見せかけたり、金箔の上にかけて金の色を強めたりする技法の起源を示している。このようなグレーズを用いる技法は中世にも例があり、イタリア・ルネサンス期や16世紀ドイツにも多くの例がみられる。たとえばウッチェロの『サン・ロマーノの合戦』では、金の上に赤のグレーズがかけられている。この油性メディウムによるグレーズが、どのようにして伝統的なテンペラ技法と併用されるようになったか、つまり絵画技法の一つとして使用されるようになったかは明らかではない。しかし、油性メディウムをはっきりと絵画材料として使用することを記しているもっとも古い例としては、10~11世紀ごろの画家エラクリウスの画論や12世紀ごろの修道士テオフィルスの『諸芸提要』などがある。またギベルティはその著『彫刻論』のなかで、ジョットがときによって油で描いたと記している。フランドルのヤン・ファン・アイクと同時代のイタリアの画家チェンニーニ(1370ころ―1440ころ)が1400年ごろに著したと推定される『芸術の書』には、テンペラ用のあまに油の調製法、顔料をあまに油で練り合わせる方法、そして卵テンペラの上に油性グレーズをかけて絵を仕上げる方法などが記述されている。バザーリは、油絵の技法はファン・アイクによって発明されたと記している。しかし、実際には数世紀にわたる長い間、多くの画家たちの試行錯誤が繰り返され、ついに15世紀に至ってファン・アイク兄弟をはじめとするフランドルの画家たちによって油絵技法が体系化されたと解釈すべきである。油絵技法の確立とその急速な伝播(でんぱ)はルネサンスの合理的な自然観、飽くなき写実表現の追求と軌を一にしている。三次元の立体と空間、光と影、物の質感などの迫真的な描写は、油絵技法によって飛躍的な発展を遂げることができたのである。[長谷川三郎]
ファン・アイクの技法
緻密(ちみつ)な木目の樫(かし)の板を基底材とし、白亜(チョーク。天然の炭酸カルシウム)を動物性の膠(にかわ)(ウサギなどの皮膠)で溶いた塗料で地塗りをする。滑らかに磨いた地の上に、水性絵の具(卵テンペラ)を用いて細筆で精細に構図を素描する。乾性油の塗膜を全面に施し、地を非吸収性にする。白を混ぜた固有色で各色面を塗る。白の量を減らし、やや有色顔料を多くして第2層を塗る。このような過程を経て、最終的には透明な絵の具の濃淡を変えながら肉づけをする。制作は明部から暗部へと進められ、絵の具は不透明な効果をもつ絵の具層の上に順次透明度を高めた絵の具層が塗り重ねられる。絵の具層全体の厚さは明るい部分ほど薄く、影の部分は厚い。人物の肌の部分では、薄いピンクや茶色の透明度の高い絵の具層を通して白く輝く地が透けて見える効果を利用し、白色絵の具はハイライトにわずかに使用されるだけである。練り合せ材は乾性油に樹脂を混ぜたものが使用されているようであるが、材質は解明されていない。乾性油に樹脂を溶かしてつくる油性ワニスについては、古くは8世紀のルッカ写本、またテオフィルスの著書にも記されている。ファン・アイクの硬質で透明な絵の具層は、コーパルやこはくのような化石樹脂が含まれているような印象を与える。おそらく彼は、煮立てて乾性化したあまに油に硬質樹脂を混ぜた練り合せ材を使ったのであろう。また溶材として揮発性精油が使用されたかどうかも明らかではない。しかし、バルサムの一種を精油で伸ばして使ったのかもしれない。完成された絵の表面は滑らかで、筆のタッチはほとんど見えず、微妙な色調の変化はきわめて自然な諧調(かいちょう)で表現されている。緩やかに乾く乾性油をメディウムに用いることによって、画家は細部の精細な描写と仕上げの効果のために落ち着いて時間をかけることができ、卵テンペラによる描写をはるかに越えた写実表現を達成することができた。また透明度の高い絵の具層の光学的効果は、画面に柔らかで深みのあるエマイユのような輝きを与え、光と質感の表現に優れた効果を及ぼしている。ファン・アイクの油彩技法はあまりにも革新的で卓越していたため、後世の人々は、彼を油絵の発明者とみなしたのであろう。[長谷川三郎]
油絵技法の発展
15世紀フランドルにおいて急速に発展した油絵技法は、イタリアにおいては比較的緩やかに進歩した。バザーリは、アントネッロ・ダ・メッシーナがファン・アイクから油絵技法を学び、これをベネチアの画家たちに広めたと伝えているが、これは両者の生没年からみて正しいとはいえない。しかし、イタリアでは15世紀中葉からしだいに油絵の技法が採用されるようになったことは確かである。この時代のベネチア派の代表的な画家であるジョバンニ・ベッリーニの作品の技法的な変化は、当時のイタリアの状況をよく示している。彼は初期においては純粋な卵テンペラ技法で描いていたが、やがて油性グレーズを併用するようになり、ついには、はっきりと油絵とよぶことのできる技法で描くようになった。それは、大気と光の微妙なニュアンスの写実的描写の発展と一致する変化である。またピエロ・デッラ・フランチェスカは、年代にはあまり関係なく、卵テンペラでも油絵でも描き、また両者の混合技法でも描いている。彼の画面に浸透している澄明な大気と光は、油性メディウムの使用によって実現されたに相違ない。
 油絵の技法は、やがてティツィアーノによって一つの頂点に達する。ベネチアで油絵が隆盛するにつれて、基底材にも板より麻布が多く使用されるようになった。基底材としての板は、よく吟味された最上質の材でつくられねばならず、高価で、大画面のための板を用意するのは容易ではなく、湿度の変化に対して弱い。麻布は、はぎ合わせて大きくすることもでき、安価で持ち運びにも便利であった。ティツィアーノは、木枠に張った麻布を基底材に用いて、膨大な数の作品を残した。彼の初期の作品では、薄い絵の具層が塗り重ねられ、表面は滑らかであったが、1540年代になると、明部に厚く盛り上げた絵の具(インパスト)がみられるようになる。後期の作品では、彼は実に自由自在に油絵の具を駆使している。彼は、薄い石膏(せっこう)と膠の地(ジェッソ)の上に大胆に構図を粗描し、筆だけではなく指やたなごころを使って描いた。固有色は放棄されている。絵の具は薄いウォッシュもあれば厚いインパストもある。メディウムにはあまに油とくるみ油が使われ、透明なグレーズには樹脂が混ぜられている。明暗の対比を強調した奔放な画面は、ほとんど印象主義的でさえある。ティツィアーノの技法は、後の画家たちに多大の影響を及ぼしている。
 17世紀にはフランドルのルーベンス、スペインのベラスケス、オランダのレンブラントの3人によって、それぞれ独特の技法が完成された。ルーベンスは、白い地塗りと、樹脂を混ぜたあまに油を使用した薄塗りの絵の具というファン・アイク以来の伝統的なフランドルの技法に、ティツィアーノ風のインパストの技法を結合させた。また彼は揮発性精油をいつも使用していたと伝えられる。ベラスケスは、軽やかですばやい筆のタッチによるインパストの表現効果を追求し、その技法は18世紀のゴヤをはじめ、19世紀のマネにまで影響を与えている。レンブラントは、いわゆるボディ・カラー(体質を多く含んだ、かさのある絵の具)を多く用い、暗い背景のなかから光を浴びた人物が浮かび上がる独特の明暗表現にアクセントを与えた。17世紀に、薄いウォッシュや厚いインパスト、透明なグレーズやボディ・カラーなど、油絵技法の可能性はほとんど開発されてしまったといっても過言ではない。
 18世紀から19世紀の前半に至る時代、油絵は技法的には退廃への道を進んでしまったといえよう。手早く描き上げたり、描き直したり、自由に加筆したりする制作上の便利さが優先し、材料や技法に対する細心な配慮がしだいに忘れられていった。白亜や石膏の地塗りをした板はほとんど顧みられず、大半の画家が亜麻布を使用し、乾燥材(シッカティフ)や揮発性精油、レーキやビテュームが乱用された。その結果、画面は透明な輝きを失い、かさかさした鈍い絵の具層になり、黒く変質したり亀裂(きれつ)を生じたりした。また産業革命の成果の一つとして、1840年代には錫のチューブに詰めた既製絵の具が生産されるようになった。画家たちは、もはや、好みの分量と性質の練り合せ材と粉末顔料を用いて独自の絵の具をつくる職人的な手仕事からも解放されてしまった。
 19世紀後半、フランスの印象派の画家たちは絵画史に大きな革新をもたらした。彼らは、戸外で自然の印象を直接画面に写生しようとした。最終的な効果を、最初のタッチで描き上げてしまうアッラ・プリーマの描法が多用されるようになった。画家たちは、それぞれの個性に応じた自由な描法で独創的な作品を生み出した。絵画の価値は、その表面にこそ存在することになり、平面性が強調された。印象主義は、ルネサンス以来のヨーロッパ絵画の写実主義が到達した帰結であるばかりではなく、油絵技法の歴史の終末をも意味しているといえよう。[長谷川三郎]

日本の油絵

7世紀中葉に制作された法隆寺の玉虫厨子(ずし)の装飾画は、エゴマからとった荏油(えのあぶら)に密陀僧(みつだそう)(一酸化鉛)を乾燥剤として加えた展色材を使って描いた密陀絵であるといわれる。また奈良時代には、彩絵の上に油を塗って絵の具を固める油色(ゆしょく)の技法が盛行した。これらは一種の油絵ということもできる。しかし絵画技法として発展することはなく、日本の絵画の練り合せ材には長い間、膠が使用されてきた。西洋の油絵の技法が日本に伝えられたのは幕末になってからである。1856年(安政3)江戸幕府の洋学校である蕃書調所(ばんしょしらべしょ)が設立され、翌1857年、同所に絵図調方が設けられて川上冬崖(とうがい)が着任して以後、ようやく日本で洋画の研究が公認された。その後、蕃書調所画学局に入った高橋由一(ゆいち)が、イギリス人ワーグマンに油絵を学び、1867年(慶応3)のパリの万国博覧会に2点の油絵を出品した。やがて1876年(明治9)工部美術学校が設立され、イタリアから画家フォンタネージらが教師として招かれて来日した。フォンタネージの在日は2年ほどであったが後任としてフェレッチ、ついでサン・ジョバンニらが来日、彼らによって油絵技法の教育が初めて本格的に行われた。油絵は、日本画に対する洋画(洋式の絵画、洋風画)として反感を買うことが多く、一般に広く認められるまでには年月を要した。日本の近代美術における油絵の歴史はヨーロッパ精神文化受容の歴史を如実に示している。[長谷川三郎]
『岡鹿之助著『油絵のマティエール』(1954・美術出版社) ▽ゲッテンス、スタウト著、森田恒之訳『絵画材料事典』(1973・美術出版社) ▽グザヴィエ・ド・ラングレ著、黒江光彦訳『油彩画の技術』(1974・美術出版社) ▽チェンニーノ・チェンニーニ著、中村彝・藤井久栄訳『芸術の書』(1976・中央公論美術出版) ▽デルナー著、佐藤一郎訳『絵画技術体系』(1980・美術出版社)』

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世界大百科事典内の油絵の言及

【絵画】より

… 壁画の技法にはさまざまの種類があるが,西欧ではとくに中世末期からルネサンス期にかけてのイタリアで,粗壁の上に塗ったしっくいがまだ乾かないうちに水に溶いた顔料で描くフレスコの技法が多くの優れた作品を生み出した。フレスコ画は,絵画が壁と一体になっているのできわめて堅牢であるが,すばやい制作が要求されることと,修正が困難であることから,油絵の登場とともに,しだいに油絵に席を譲るようになった。油絵の技法は,15世紀にまずフランドル地方で確立され,しだいにヨーロッパ全体に広がっていったが,その表現力の豊かさのゆえに,今日でも絵画の主流となっている。…

※「油絵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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