美術作品を展示し、不特定もしくは特定の鑑賞者に、作品の鑑賞や評価を求める展覧会。美術館が所蔵する作品を常時展示するいわゆる常陳展も広義にはこれに含まれるが、通常は特定の期間、特定の会場で行われる。パリのアンデパンダン展、サロン・ドートンヌ展、あるいは日本の日展、院展、二科展など、また1895年第1回展以後、中断を含みながら隔年開催されるベネチア・ビエンナーレのような定期展、それに対して、パリのグラン・パレ、ニューヨークのメトロポリタン美術館、東京の国立西洋美術館をはじめ、各美術館、画廊その他で臨時に開催される特別企画の展示がある。企画の内容は、団体展、グループ展、個展、競売や作品売却のための展示など、きわめて多岐にわたる。たとえば、同じ個展形式でも、現存の作家が自己の近作の成果を世に問うために展示する場合もあれば、過去の作家の作品を、生誕○○年記念、没後記念などさまざまな意図と名目により、主催者が企画組織して展覧会を構成する場合もある。
[中山公男]
縁日や市場で作品を並べ、人々がそれを鑑賞し、購入するといった美術展の原形となる営みは古くからあったに相違ないし、西洋、日本でも近世以降にはその記録がある。しかし、古代、中世、さらに近世に至るまで、美術品の多くは注文生産で、展覧会形式はさほどの必要性も効用ももたなかったといってよい。
[中山公男]
オランダやイタリアでは、16世紀から17世紀にかけて、しばしばギルド主催の展覧会が開催されたという記録が残されているが、それらは工房作品、版画、工芸品などが主体であった。しかし、17世紀にギルドと並立して成立することになる王立アカデミーは、その権威のためにも優れた作家による優れた作品の展覧会を開催することになる。フランスでは1663年にアカデミー・ロワイヤルが創設され、1667年には第1回のサロンが開催され、若干の断続はあったが、19世紀以降のサロンの原形を形づくっている。18世紀にルーブル宮のサロン・カレ(方形の間)で開催されたため「サロン」と通称されるこの展覧会は、大革命時まではアカデミー会員および準会員の発表の場であったが、革命後は公募・審査の方式をとることになる。そして公募展が多くなり、落選者も増えるにつれて「落選展」が開かれ、さらに、自由に参加することのできるアンデパンダン展などが開かれ、20世紀には民間の各種団体展が数多く出現する。かつての注文主あるいはパトロン対芸術家の関係は、個人の芸術家対収集者あるいは鑑賞者という市民社会での美術消費の形式にとってかわり、それは必然的に展覧会による表現形式を増大させ、落選展やアンデパンダン展だけではなく、1855年の万国博覧会の落選に対抗して「レアリスム」を名のる個展を開いたクールべ、1874年に第1回の印象派展を開いたモネたちの例が示すように、個展、グループ展形式も成立する。また19世紀以降、いわゆる万国博覧会内部で開かれた美術展も大きな役割を担った。たとえば1855年のパリ万国博でのドラクロワ展、1899年の同じパリ万国博でのフランス絵画百年展のような大規模な回顧展も、新しい展覧会形式の基礎をつくっている。
おそらくかなり古い時代から行われたと思われる美術商の店頭での作品提示、あるいは遺産の売却のための売り立てなども重要な展覧会形式の一つである。これも18世紀以降盛んに行われ、今日ロンドンその他の世界の何か所かで部門別に開催されるサザビーズやクリスティーズの競売展などは、その系譜上にある。
イギリスでは、ロイヤル・アカデミーの前身であるイギリス美術家協会が1760年に展覧会を開催し、1769年以降アカデミー主催の定期展となっている。ドイツでは、版画家ホドウィエツキDaniel Nikolaus Chodowiecki(1726―1801)の個展がベルリン・アカデミーの主催で1787年に開催されたのが最初で、以後ミュンヘン、ドレスデン、ウィーンなどの各地でアカデミー展が開かれている。こうしたアカデミー主催の展覧会に対し、やがて民間団体による団体展、個展などが開かれるようになり、むしろそうした展覧会の隆盛が近代・現代美術の推進の母体となる事情は、19世紀後半以後、各国に共通してみられる。
[中山公男]
今日の美術への関心の高まり、文化消費志向は、国際的に美術展の需要を促し、ハプニング、パフォーマンスなども含む多様な形式での展覧会の隆盛を示している。しかし、より重要な現象は展覧会の国際化であり、サン・パウロ、ベネチアのビエンナーレなどが現代美術の推進、評価の核として定着する一方、過去の巨匠や、ある時代の美術を、国際的な文化交流の一環として、海を越えて展示する企画が増大している。19世紀の万国博覧会での国際美術展、あるいはロンドンやニューヨークでしばしば開かれたフランス印象派展、アメリカ現代美術に決定的影響を与えることになったニューヨークでのアーモリー・ショー(1913)などを先駆とする今日の数多くの国際交流展は、単なる美術鑑賞の枠を越えて、国際的な相互理解でも、その国の美術界への影響という点でも、大きな役割を果たしている。
この種の特別企画展は美術館その他の主催者が組織にあたり、展覧会の企画・立案、作品出品の依頼・交渉・輸送・展示に関して責任をもつ。貴重な作品の海外への出品に関しては、所蔵者側に抵抗が大きいのは当然であるが、文化交流の趣旨、また本質的に優れた作品はより多くの人々に見られることを欲するということで、文化財保存の目的との間に矛盾を含みながらも、出品作品が選定されるのが通常である。
展覧会では、その最初期以来、つねに小冊子あるいは図録(カタログ)形式の出品目録がつくられ、これは美術史研究にとっても重要な手掛りとなっている。とくに大規模に行われる企画展は、単に美術鑑賞の機会を提供するだけではなく、散逸した作品を一堂に展示することにより新しい研究と評価の契機となるため、図録の内容的な充実が顕著である。いずれにせよ、展覧会は美術的な生産者と需要者との出会いの場であるとともに、なによりも発表と評価の出会いの場であり、今後ともいっそうその重要性が増大するものと思われる。
[中山公男]
美術品の展覧会をいう。不特定多数の鑑賞者を対象とした啓蒙的なもの,自発的に催されるもの(グループ展など)のほか,競売を目的としたものなどがある。
中世,ルネサンスにかけて都市のギルド(画家組合)の美術家は,原則的には王侯貴族,また富裕な市民の注文によって美術作品を生産していた。もっとも,貧しい美術家が美術作品を街頭に並べて,都市の市や祭の日に売っていた記録はヨーロッパ,日本に見られるが,一定の会場で美術作品を陳列し,無名の購買者に見せることはなかった。注文でなく,無名の購買者のために商品としての美術作品を生産するようになって,はじめて美術展覧会が開催されるようになった。絵画のほうからいえば,壁面や天井に施されるモザイク,またフレスコから,板またはキャンバスのうえに描くタブローが生まれてからで,それ以後,画家は一定の都市に定住し,アトリエのなかで自由な商品としての美術作品を生産することができた。美術展覧会のはじめは1540年のアントワープの絵画取扱所,1640-64年のユトレヒトのギルド主催の展覧会,1656年のハーグのギルド主催の展覧会にさかのぼる。また同じころイタリアでも,ベネチア,ローマ,フィレンツェなどで展覧会が催されていた。ギルド主催の美術展覧会の形式は18世紀初めまで残っているが,ギルドの独占的で排他的な形式が束縛となってきて,フランスでは1667年にJ.B.コルベールがパリの王立絵画・彫刻アカデミー創立19周年記念にギルドとは離れた美術展覧会を開催し,その後もつづいて開かれた。ルイ15世(在位1715-74)時代にルーブル宮殿の〈サロン・カレ(四角の間)〉で定期的に美術展覧会が開催されてからは,この展覧会は〈サロン〉と呼ばれ,現在もそう呼ばれている。ここでは出品はアカデミー会員(または準会員)の特権となっていたが,フランス革命の直後J.L.ダビッドの提案でこの特権は廃止されることになった。1863年には,サロン落選者のための落選展Salon des refusésが開かれた。その後,この公的機関によるサロンに反対して84年にアンデパンダン展Salon de la Société des artistes indépendantsが組織されたのを初めとして,サロン・ドートンヌSalon d'automne(1903),サロン・デ・チュイルリーSalon des Tuilerie(1923)などがそれぞれの美学上の主張を掲げて組織されている。イギリスではロンドンの美術家の協会であったイギリス美術家協会Society of Artists of Great Britainが1760年に展覧会を開催したのが最初であり,これはローヤル・アカデミーに引き継がれて69年以後毎年展覧会が開催されている。ドイツでは1787年に版画家ホドウィエツキーDaniel Chodowiecki(1726-1801)がベルリン・アカデミーで個展を開催したのが初めで,90年以来,同じ会場で,毎年,国内・国外作家の展覧会が開かれた。ミュンヘンでは1808年ミュンヘン美術家の展覧会を旧イエズス会大学で開催し,それ以後毎年開催していた。
19世紀に入ると,国内的な美術展覧会ばかりでなく,国際的な美術展覧会が各国で開催されることになり,最初の国際的な美術展覧会は1863年にミュンヘンで開催されたものとされる。現在,定期に開催されている国際美術展の最古の伝統をもつのは,1895年に第1回を開催し,それ以後一時中断したこともあるが,2年目ごとに開催しているベネチア・ビエンナーレであり,第2次大戦後では,サン・パウロ・ビエンナーレ(1951-),毎日新聞社主催の日本国際美術展(通称〈東京ビエンナーレ〉,1952-70)などがある。版画の国際展はアメリカ,スイス,ユーゴ,ポーランドなどで定期に開催され,1957年東京国立近代美術館において第1回東京国際版画ビエンナーレ展が開かれている。以上の官設展,美術団体展のほかに,20世紀に入って,主として画商の画廊を会場とする個展が重要な発表の場となっている。また第2次大戦後は,ハプニングやパフォーマンス,ランド・アートLand art,ビデオなど,新しい表現方法の登場により,美術展覧会のあり方も多様化している。
→サロン →ビエンナーレ
執筆者:土方 定一
日本において近代的な意味での美術展覧会が開かれたのは,明治初年代のことである。1872年湯島の聖堂で文部省博物館主催の博覧会が催され,そこに古美術とともに油絵が並んだのがはじまりと考えられる。74年には同じ場所で博覧会事務局主催の書画展覧会が開かれ,柴田是真,小林永濯,高橋由一らの作品が展示された。民間の展覧会もほぼ同じころはじまる。すなわち75年,国沢新九郎が開設した画塾彰技堂の新橋竹川町の分室で油彩と水彩画を展観したのが最初とされ,つづいて76年,高橋由一が主宰する画塾天絵社で毎月第1日曜日に展覧会を開き,自作と門下生の作品を公開したことが知られている。日本画では,85年鑑画会第1回大会に新画を展示したのが早い例とされる。さて77年の第1回内国勧業博覧会で菊池容斎,滝和亭,高村光雲,五姓田義松,高橋由一らが受賞し,81年の第2回博覧会にも河鍋暁斎や滝和亭らと並んで洋画の高橋由一が受賞しているが,おりから国粋主義による洋風美術の排斥運動が勢いを強め,82年と84年に農商務省が主催した内国絵画共進会には,洋画の出品は許されなかった。その後,明治美術会や白馬会の展覧会,日本絵画協会の共進会などが定期的に開催されたが,1907年に文部省美術展覧会(文展)が開設されると,これが美術界の一つの大きな中心となり,第2次世界大戦後の日本美術展覧会(日展)までつながることになる。しかし他方,14年に二科会と日本美術院が在野団体として結成されたのをはじめとして,多数の美術団体が生まれ,それぞれの展覧会を開いている。戦後のいちじるしい傾向として,国際的な展覧会がひんぱんに開かれることを挙げなければなるまい。内外の美術家が参加するビエンナーレ形式の現代美術展も早い時期から開かれている。また海外の名作を美術館やデパートに特設した会場で展示する習慣ができたのも戦後のことである。
→官展
執筆者:原田 実
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…政府が主宰する美術展覧会とその機構。1907年(明治40)の文部省美術展覧会(通称文展)開設をそのはじまりとする。…
※「美術展覧会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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