在家村
ざいけむら
[現在地名]川口市在家町・柳根町・北園町・安行領在家
柳崎村の東に位置する。ほぼ中央を芝川が南流する。田園簿では田九二石余・畑二二石余で、関東郡代伊奈領。承応二年(一六五三)伊奈忠治の次男忠詣が代官となったのを機に、足立郡の内で一千五〇〇石を与えられたが、万治二年(一六五九)没し、嗣子がないため幕府に返納している(寛政重修諸家譜)。
在家村
ざいけむら
[現在地名]岡崎市在家町
矢作川と占部川(用水)に挟まれた沖積平野のほぼ中央に位置し、東は野畑村・下和田村、西は下青野村、南は国正村・上三ッ木村、北は土井村に接する。下青野村の支村である。在家とは出家に対して在俗のものを意味し、かつてこの地の堂守などに縁故ある名称かと思われる。
「三河国二葉松」に在家古屋敷として石川大隅守・同八右衛門の名がみえ、戦国期は在地武士がこの村を支配していた。近世に入って岡崎藩領堤通手永に属し、享和二年書上によると、村高五一四石余、人別二六〇人、うち男一二三・女一三七とある。
在家村
ざいけむら
[現在地名]浦和市在家・昭和
宿村の北、荒川の自然堤防地帯に位置する。北は島根村(現大宮市)。西の八貫野に持添新田がある。東を鴨川が流れる。在家という地名は、応安二年(一三六九)七月二八日の大窪郷地頭方三分一方田畠注文(正木文書)にみられる「光仙在家」「すたれ在家」「さうねん在家」などにかかわるものと思われる。植田谷領に属する(風土記稿)。
在家村
ざいけむら
[現在地名]上宝村在家
高原川と蔵柱川とに挟まれた河岸段丘南東部にあり、西は本郷村、北東の低い段丘に宮原村。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳によれば高原郷に属し、高八一石余。元禄検地反歩帳では高一七〇石余、田五町二反余・畑一五町四反余。「飛騨国中案内」によると、免三割四分二厘五毛、家数三七(うち百姓二一・門屋一一・地借四・社人一)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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