日本歴史地名大系 「坪内村」の解説 坪内村つぼのうちむら 京都府:綾部市坪内村[現在地名]綾部市田町(たまち)・新町(しんまち)・新宮(しんぐう)町・本宮(ほんぐう)町・本町(ほんまち)上野(うえの)台地の北麓にあり、東は新宮村と接するが、田畑反別石高其他(沼田家文書)に「入会ニ付仕訳出来かたし」とある。北は本郷綾部村(町分)、西は神宮寺(じんぐうじ)村。綾部郷一二ヵ村の一。上野に九鬼氏の居館が移築されると、綾部村(町分)とともに城下として田町・上町(かんまち)・新町などの町分がつくられた。なかでも田町はかつて若宮(わかみや)神社の馬場であったものが大手門と本町を結ぶ主要街路となったものである。天保年間(一八三〇―四四)村内の家数一六四軒のうち田町・上町・新町の三町で一二四軒を占めている(田畑反別石高其他)。 坪内村つぼのうちむら 神奈川県:伊勢原市坪内村[現在地名]伊勢原市坪ノ内東境を栗原(くりはら)川、南境を善波(ぜんば)川が流れ、北は栗原村、西は善波村に接する。波多野(はたの)道が東西に通り、中ほどで小田原道が分れる。正保国絵図に「坪ノ内」とみえる。中世には白根(しらね)郷の一部。字谷戸岡(やとおか)は応永二七年(一四二〇)一二月二一日の関東公方足利持氏御教書(県史三)に「白根庄内浄業寺、同寺領矢田岡郷」、享徳二年(一四五三)一二月一五日の関東公方足利成氏御教書(同書)にも「浄業寺領矢田岡郷」とみえ、三(さん)ノ宮(みや)村にあった浄業(じようごう)寺の所領で、諸公事課役を免除されている。 坪内村つぼのうちむら 富山県:砺波市坪内村[現在地名]砺波市坪内矢木(やぎ)村の南西にある。村名は、昔南隣の大門(おおかど)村へ王様が来たとき、花坪の内だったことに由来すると伝える(貞享元年「村名由緒書上」加越能文庫)。元和五年(一六一九)の太田組役家数書上(金子文書)には坪之内とあり役家数一。同年の家高新帳に「つほの」とあるのは略記であろう。正保郷帳では高二三一石余、田方一五町二反余・畑方二反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一三九石・免四ツ、小物成は野役一四匁・鮎川役二匁・鱒役一匁(三箇国高物成帳)。役家数は延宝四年(一六七六)には五軒(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by