城山村
じようやまむら
[現在地名]美方町城山
大谷村の北に位置し、集落は矢田川の左岸に発達。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「志やう山」とみえ、当地には「かとかき殿」「山き四郎殿」などが住していた。「七美郡誌稿」によると、大谷村および久須部村は古くは当村の支村で、寛永一九年(一六四二)にそれぞれ一村になったという。ただし同一六年の知高帳や正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では当村・久須部村ともに大谷村高二二〇石のうちに含まれて高付されていたと考えられる。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)に村名がみえ、高一二〇石。
城山村
じようのやまむら
[現在地名]松山市城山町
松山市域の東北端に近い山村。高縄山塊の西南部にあたり、三〇〇―五〇〇メートルの山地が連亘し、高原状を呈する。人家は渓谷に沿ってわずかに存在し、大部分は草原と山林に覆われている。東は小屋村、西は菅沢村、南は神次郎村、北は柳谷・恩地の二村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の風早郡の項に「城ノ山村 芝山有、林少有」とある。
古代において、いずれの郡・郷に属していたかは不明である。
城山村
しろやまむら
[現在地名]亀田郡七飯町字上藤城・藤城
近世から明治一四年(一八八一)まで存続した村。久根別川の上流域に位置し、東から北は七飯山(七七九・二メートル)・吉野山(四八四・三メートル)の山麓、南から西は函館平野の北端に続く。安政年間(一八五四―六〇)八王子千人同心の子弟らが藤山郷に移住、田畑を耕すほか養蚕所を設けるなどして同六年家数一五軒となったため、城山郷として一村立された(「書付并伺書類」など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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