日本歴史地名大系 「塔尾村」の解説 塔尾村とのおむら 石川県:加賀市塔尾村[現在地名]加賀市塔尾町動橋(いぶりはし)川中流右岸の渓谷にあり、北は柏野(かしわの)村、南は中津原(なかつはら)村(現山中町)。鞍掛(くらかけ)山(四七七・七メートル)に続く山地を集落東に負う。元禄一四年(一七〇一)の大聖寺領高辻帳(加越能文庫)には「トウノヲ」のよみを付し、現地では「トノゴ」ともいう。永正三年(一五〇六)朝倉氏によって国を追われた越前藤島(ふじしま)(現福井市)の超勝(ちようしよう)寺はまず塔尾に逃れ、享禄の錯乱では光教(こうきよう)寺などの賀州三ヵ寺派と激しく対立して勝利した。これによって三ヵ寺派に属していた寺院を追放したが、勝光(しようこう)寺・願成(がんじよう)寺など三ヵ寺派の寺院が塔尾近くの水田丸(みずたまる)村などに移転したのも、超勝寺の監視下に置かれたためといわれる(加賀市史)。 塔尾村とうのおむら 富山県:東礪波郡城端町塔尾村[現在地名]城端町塔尾(とうの)山田(やまだ)川左岸、川を隔てて南に上見(うわみ)城跡、西は立野(たての)ヶ原(はら)丘陵、北は千福新(せんぶくしん)村・野口(のぐち)村。弘安二年(一二七九)嘉念坊善俊が山田郷塔尾の山中に一宇の坊舎を建立したと伝える(城端町史)。元和五年(一六一九)の家高新帳では「せと与」に属し、役屋数三。正保郷帳では高九四石余、田方五町三反余・畑方一町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一〇七石、免五ツ九歩、小物成は山役二七匁・蝋役二匁・牛役二匁(三箇国高物成帳)。文政八年(一八二五)能美組、天保一〇年(一八三九)以降山田組に属した。 塔尾村とうのおむら 大分県:宇佐郡安心院町塔尾村[現在地名]安心院町塔尾大見尾(おおみお)村の西、佐田(さだ)川支流塔ノ尾川流域にあり、北は矢津(やづ)村、西は楢本(ならもと)村・六郎丸(ろくろうまる)村。塔尾・中間(なかま)・屋敷(やしき)の三集落からなり、「とうの」ともいう。岩男忠左衛門書置(安心院町誌)によると、中間はもと六郎丸村分(上中間)・楢本村分(下中間)であったが、延宝六年(一六七八)中津藩の岩波源三郎の新法で当村のうちとなったという。なお中間は古くは一村であったのか、弘治二年(一五五六)七月三日の佐田隆居討死手負注文(佐田文書)に「中間助四郎」「同五郎兵衛」とみえ、両名ともに去る六月八日の筑前国千手・馬見表合戦で矢疵を負っている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報