近世~近代に瀬戸内沿岸の播磨,備前,備中,備後,安芸,周防,長門,阿波,讃岐,伊予の10ヵ国に存在した塩田の総称。近世これらの10ヵ国では,他の諸国の塩田と比較して,一軒前の塩田規模も大きく多量の塩を生産した。その産額は,文化(1804-18)ごろには1ヵ年の全国生産高500万石の90%にあたる450万石といわれている。瀬戸内の主要な塩田の開発時期は,阿波撫養(むや)は16世紀末から17世紀初頭,播州赤穂,安芸竹原が17世紀の中ごろ,備後松永,同富浜,伊予波止浜(はしはま),周防三田尻,同平生が17世紀後半で,18世紀になって伊予多喜浜,19世紀20年代に備前野崎浜,讃岐坂出が開発されている。瀬戸内の塩浜軒数も延享(1744-48)ころに1700軒,宝暦年間(1751-64)に2000軒,文化年間に2500軒,そして幕末には3000軒と増加し,塩田面積も4000町歩に達した。
瀬戸内塩田では18世紀の中ごろから,塩田濫造等が原因で塩の生産過剰をまねき,塩価の低落,不売塩の堆積という塩田危機を招来した。その打開策として考案されたのが休浜法(やすみはまほう)である。塩の生産制限を中心とする休浜法は,塩業者たちの盟約というかたちで実施され,宝暦期には安芸,備後,伊予3ヵ国の塩業者の参加を得て休浜同盟が結ばれたが,まもなく破綻した。明和期(1764-72),再び休浜同盟が提唱され,安芸,備後,伊予,周防,長門の5ヵ国協定が成立し,その後,幕末ころまでに播州,阿波,備前,讃岐の諸国も参加した。いわゆる十州休浜同盟である。ただ,これには各国内のすべての塩田が参加したわけではなく,小規模な塩田は加わっておらず,備中諸浜はほとんど百姓小浜であったため1884年まで参加していない。同盟に参加した諸浜は,毎年安芸厳島(のち備前瑜伽山と交替)で集会をもち,休浜期間等の問題を議した。この盟約は違反者が出るなど曲折はあったが,明治維新の混乱期にも中断することなく引き継がれて,1875年7月丸亀集会から再編強化がみられる。75年10月の尾道集会から従来の諸国塩浜集会の名称を十州塩浜会議と変え,77年には十州同盟塩戸会議,84年には農商務省の特許を得て十州塩田同業会が設立された。翌年8月農商務省特達によって,生産制限を中心とする同盟が法的根拠をもつことになり,86年には十州塩田組合が発足したが,87年9月ごろから生産制限の撤廃を求める運動が激しくなり,89年に政府は先の特達を取り消している。その結果,十州塩田組合も休浜同盟推進の母体としての本質を失い,90年5月の臨時会を最後に自然消滅した。そして94年には全国的組織としての大日本塩業同盟会が結成された。
執筆者:渡辺 則文
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…上古の時代は,土器製塩あるいは海藻類を利用した藻塩焼(もしおやき),海浜の砂に付着した塩分の浸出などの原始的な方法によっていたが,9世紀ころからしだいに塩浜(しおはま)の形態が整い,入浜式(いりはましき),揚浜式(あげはましき)の塩浜が出現した。とくに入浜式では,17世紀初めに大規模な入浜式塩田が開発され,立地条件の恵まれた瀬戸内海沿岸を中心に発達し,いわゆる〈十州塩田〉を形成した。一方,揚浜式は日本海や太平洋の沿岸に発達した。…
…江戸時代から明治期にかけて,瀬戸内十州塩田の産塩を大坂・江戸あるいは北国などの消費地に運送した廻船。十州塩田で生産される塩は,産地の塩問屋を介して塩廻船に販売されるのが普通であった。…
…【田中 隆之】
【日本の石炭鉱業】
[戦前]
日本における石炭の発見は各地に伝承として伝えられているが,17世紀後半から筑前,豊前,長門などで広く採掘されはじめた。当初は家庭での薪炭の代用として,やがて製塩用として用いられ,18世紀末には瀬戸内の十州塩田(播磨,備前,備中,備後,安芸,周防,長門,阿波,讃岐,伊予)に普及した。この間,石炭採掘の専門業者が出現するようになり,19世紀前半には筑前,豊前,唐津などで仕組法と呼ばれた藩による専売制が採用され,石炭の販売生産を統制した。…
※「十州塩田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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