境野村(読み)さかいのむら

日本歴史地名大系 「境野村」の解説

境野村
さかいのむら

[現在地名]秋保町境野

村央を名取川南東に流れ下り、東・南は湯本ゆもと村、西は長袋ながふくろ村、北は宮城郡上愛子かみあやし(現宮城町)。名取川沿いに二口ふたくち越出羽道が通り、北へ境野以西の人が仙台へ出る際通る板颪いたおろし峠を越える道が分岐する。また南へ折れて柴田郡本砂金もといさご(現川崎町)へと出る道も分岐していた。天正一八年(一五九〇)七月一九日付伊達政宗書状(秋保基盛家文書)に「境野」とみえ、国分こくぶより退去してきた者の荷物が当地で奪い取られたことについて境野玄蕃を再び糾明することなどが秋保弾正(直盛)に命じられている。境野氏は秋保氏の分家で、永禄一一年(一五六八)秋保則盛の次男平六郎盛久が境野村、新川につかわ(現宮城町)のうちを分知され、当村西にし(境野城)を拠点として慶長八年(一六〇三)加美かみおお(現色麻町)へ移されるまで両村を知行したという(「境野家歴代事跡考」境野剛家文書)


境野村
さかいのむら

[現在地名]桐生市境野町一―七丁目・広沢町間ひろさわちようあいしま

渡良瀬川と桐生川とに挟まれた氾濫原上に位置。桐生川を境に東は下野国足利あしかが小俣おまた(現栃木県足利市)、北は同国同郡小友おとも村、渡良瀬川を隔て西は上・中広沢村。渡良瀬川左岸に沿い、加茂神社塚・長者ちようじや塚の二古墳、はまきよう天神台に鎌倉期の寺院跡がある。間ノ島は古くは渡良瀬川左岸であったが、寛永元年(一六二四)の洪水で分離され島状となった(高橋文書)。桐生道が通り、松原まつばら渡がある。村名は下野国との境にあるため名付けられたという。永禄五年(一五六二)正月二三日、「上州境野宿」で森孫八郎が戦功を立てている(同月二四日「足利義氏宛行状写」武州文書)


境野村
さかいのむら

[現在地名]新鶴村境野

高田たかだ(現会津高田町)の北約六町余、下野街道に沿う街村。東をみや(鶴沼川)、西を赤沢あかさわ川が流れ、四周に田畑が開ける。南東に端村二軒境野にけんさかいの、北に同じく新田がある。明徳二年(一三九一)五月一三日の某判物(新編会津風土記)に「大沼郡松岸諏訪田」として「三貫文大沼郡堺野村内五百苅蜷河庄萱津村内五貫文」とあるが、この史料には疑問がある。境野館には河原田豊前が住んだという。豊前は蘆名氏の重臣松本氏の郎党で、のち伊達政宗に属したという(同書)


境野村
さかいのむら

[現在地名]宝塚市境野

玉瀬たまぜ村の北に位置する。川辺かわべ郡に属し、文禄三年(一五九四)に石川久五郎によって検地が行われた(延宝七年「境野村検地帳」境野自治会文書)。慶長国絵図には「堺野村」とみえ高一三九石余、正保郷帳も同じ。天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領村高帳では本高一三九石余・新田高三石余。延宝検地では新開は二一石余、田畑の等級の変化や測量単位の変更による面積増などが六八石余あり石高は二一九石余になった(前掲検地帳)


境野村
さかいのむら

[現在地名]朝日町境野

常磐ときわ谷の中央にあり、比高の大きな河岸段丘上にある。西は上戸うわど(現織田町)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「織田庄平村」に含まれたと考えられる。正保郷帳に村名がみえ、田方三九石余・畠方四二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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