増福院(読み)ぞうふくいん

日本歴史地名大系 「増福院」の解説

増福院
ぞうふくいん

[現在地名]高野町高野山

壇上伽藍はす池の東にある勧学かんがく院の東隣に位置する。「続風土記」によれば万治(一六五八―六一)の頃まで谷上院たにがみいん正智しようち院の傍らにあり、その後御社ごしや山の南に移り、元禄六年(一六九三)みなみ西室にしむろ院の南に移った。さらに明治以降旧花王けおう院の敷地に移り、昭和の初め頃北隣の心南しんなん院の敷地を合併した。本尊愛染明王。準別格本山。鎌倉時代の信堅院号帳や文明五年(一四七三)の諸院家帳にはみえず開基は不詳だが、室町時代末期には存在していたらしい。「続風土記」には永禄一一年(一五六八)高野山二〇四代検校となった祐清浄存房を当院住職とし、「諸院家析負輯」は元亀二年(一五七一)一九六代検校頼印浄存房を当院住職とする。


増福院
ぞうふくいん

[現在地名]宗像市山田

はく山山麓にある曹洞宗寺院。妙見山と号し、本尊は秘仏六地蔵。初めは毘沙門天(伝弘法大師作)を安置する増福庵という小庵であった。天文二一年(一五五二)宗像大宮司家の内紛で、鍋寿丸(のちの氏貞)方に寝返った石松但馬守は腹心の野中勘解由・嶺玄蕃を従えて、宗像正氏の正室山田局およびその娘菊姫、侍女四人を殺害。六人の怨霊の祟りを恐れた氏貞は、同二三年一一月田島医王たしまいおう院の二世掌藺を開山に招き、当庵を六人の霊の菩提所としたという(「続風土記」など)。永禄二年(一五五九)氏貞から増福庵に妙秀・妙安両尊霊の日霊供料として山田村のうち田地二町の寄進があった(七月二三日「宗像氏貞寄進状」増福院文書/宗像市史 史料編二)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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