大井手村(読み)おおいでむら

日本歴史地名大系 「大井手村」の解説

大井手村
おおいでむら

[現在地名]高城町大井手

現高城町の南端部に位置し、東は山之口やまのくち村、南は花木はなのき村・富吉とみよし(以上現山之口町)、西は桜木さくらぎ村・穂満坊ほまんぼう村。山之口村から当村を経て桜木村に至る鹿児島街道が通り、村内を東岳ひがしだけ川が西流する。江戸時代は鹿児島藩領で高城郷に所属(「三州御治世要覧」など)。暦応二年(一三三九)七月八日の大友宗雄軍忠状(志賀文書)によれば、大友宗雄は南朝方の肝付兼重与党の討伐を行った畠山直顕軍勢に属し、同年四月二三日に「三俣院大井手」の陣に加わっているが、これは高城攻略のための陣で、地内には高城跡がある。


大井手村
おいでむら

[現在地名]四日市市大井手おおいで一―三丁目・中川原なかがわら四丁目・松本まつもと三丁目・西松本にしまつもと町・大井手・青葉あおば

松本まつもと村の北、三滝みたき川の南に位置し、東は伊倉いぐら村。「三国地志」「五鈴遺響」などによれば、旧名を「泉村」と称したが、津藩領になって以降、藩主藤堂氏の官途名和泉守をはばかって大井手村と改称したという。「五鈴遺響」は「神鳳鈔」にでる「泉御厨」「外宮(二宮)一石九斗小泉御厨各四石五斗」の故地とする。江戸時代初めは津藩領、寛文九年(一六六九)支封久居藩成立とともに久居藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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