日本大百科全書(ニッポニカ) 「大仏様建築」の意味・わかりやすい解説
大仏様建築
だいぶつようけんちく
鎌倉初期に行われた建築様式。治承(じしょう)の兵火(1180)で焼失した東大寺の復興にあたり、大勧進(だいかんじん)に任じられた重源(ちょうげん)が、当時の中国建築の様式を取り入れてつくった建築様式で、東大寺大仏殿の造営にちなんでこの名でよぶ。かつては天竺(てんじく)様ともよんだが、インド様式と誤解されやすいので、この名称が提唱された。
鎌倉時代に復興された東大寺の建築のなかで、現存する南大門(1199上棟)をみると、組物は柱に挿肘木(さしひじき)が挿し込まれ、柱と柱は貫(ぬき)で何段にも固められ、垂木(たるき)はまっすぐで、先端には鼻隠板(はなかくしいた)がつく。また軒の隅は扇(おうぎ)垂木が配される。柱から突出する貫の先端の木鼻(きばな)には連続する円弧の繰形(くりかた)があるなど、古代から伝えられた在来の建築様式の和様とは著しく異なっている。このような建築細部の様式が大仏様の特徴である。重源の造営した兵庫県・浄土寺浄土堂(1194上棟)もこの様式になる建物で、内部に入ると挿肘木で円形の虹梁(こうりょう)を受け、その上に円形の大瓶束(たいへいづか)を立てる架構がみられる。このような架構も大仏様の特徴である。扉も表面に桟のみえる桟唐戸(さんからと)で、桟には中央を高めた鎬(しのぎ)がつき、上下に軸吊(じくづ)りとして藁座(わらざ)が用いられる。柱間の中間には遊離尾垂木(ゆうりおだるき)が入るのも特色である。
大仏様建築は構造そのものが意匠的に扱われている。したがって、その荒々しさが建物の魅力となったが、当時の人々には異質すぎたのか、貫による強化や、虹梁、大瓶束の構造による利点、円弧による木鼻の装飾、桟唐戸などが応用されて、新和様建築の出現をみるが、純粋の大仏様建築は重源の死後あまり建てられなくなった。
[工藤圭章]