日本大百科全書(ニッポニカ) 「大判・小判」の意味・わかりやすい解説
大判・小判
おおばんこばん
江戸時代の金貨。大判の鋳造は15世紀中ごろ以後貿易用に量目42匁(158グラム、田舎目(いなかめ)10両)の金貨がつくられたことに始まるが、いわゆる大判としては1588年(天正16)豊臣(とよとみ)秀吉の命でつくられた天正(てんしょう)大判がもっとも早い。これは縦15センチメートル、横10センチメートルの長円形で重さ44匁(165グラム、京目10両)あった。江戸時代には後藤徳乗(ごとうとくじょう)家が特権を与えられ、大判座で鋳造。表裏の文字墨書やその手入れ、墨書の書き直しも後藤家で行った。大判は1枚2枚と数え、軍用・儀礼用(賞賜・進献・贈答)とされた。大判の品位は天保(てんぽう)大判を除き、小判よりやや低く、大判を実際に使用するときは、慶長(けいちょう)大判は同小判8両2分、享保(きょうほう)大判は同小判7両2分、万延(まんえん)大判は同小判25両というように、重量と品位に応じて小判に引き換えて用いた。
小判は1595年(文禄4)徳川家康が豊臣秀吉の許可を得て、京都から後藤徳乗の代理をよび、江戸と駿府(すんぷ)で鋳造させたのがおこりである。初め徳乗の弟がこれにあたるはずであったが、病身のため帰京し、以後後藤光次(みつつぐ)が御金改役(おかねあらためやく)として管掌し、幕末までその後裔(こうえい)が引き続き事にあたった。1601年(慶長6)以後慶長小判と、両目が小判の4分の1にあたる一分判を継続して大量に鋳造してから、これが全国に行き渡り標準通貨となった。小判は江戸時代を通じて何回も改鋳されたが、品位量目に関係なく1枚1両とされた。
[滝沢武雄]