大友館跡(読み)おおどもやかたあと

日本歴史地名大系 「大友館跡」の解説

大友館跡
おおどもやかたあと

[現在地名]大分市上野丘西

大分川下流域左岸の上野うえの丘東端近くにあった大友氏の館。御屋敷おやしきの字名が残る。館跡はほぼ方形に近い主体部と北西側の張出しからなる。南東隅から北東隅にかけては急傾斜を示し、土塁の旧状をとどめており、北側土塁の基底部にはテラス状の平坦面を伴う。築造土塁はほとんど削平されているが、土塁基底部の東西一三〇メートル・南北一五六メートル、上面は東西一一〇メートル・南北一二八メートル、北西張出し部は南北四〇メートル・東西三〇メートル、主郭の出入口は枡形であったと考えられる。南西部に一部残る空堀の幅は南面約二五メートル・東面約三〇メートル・西面約一〇メートル(大分市史)

「臥雲日件録抜尤」享徳四年(一四五五)正月五日条に「大友宅、葺以茅茨、敷以竹、淳朴可嘉也」とみえ、萬寿まんじゆ寺で二夏を過ごし、前年冬に帰洛した曇芳は大友氏一五代親繁の邸宅がきわめて質素な造りであったことをほめている。天文一九年(一五五〇)二月一〇日夜に起こったといわれる二階崩れの変の名称(「大友興廃記」など)から、少なくとも二階のある館が考えられる。「大友家文書録」の綱文によると、永禄元年(一五五八)閏六月一八日、大友宗麟の嫡子長寿丸(義統)が「上原館」で誕生、宗麟が臼杵丹生島うすきにゆうじま(現臼杵市)に移った後は、長寿丸が上原うえのばる館にとどまったという。さらに、大友家は代々府内に館を構え、不慮の守りとして高崎たかさき山に築城したが、義鎮(宗麟)の代に館を上原に移したとある。上原は上野丘一帯に比定されるが、日件録にみえる大友館との関係は未詳。天正六年(一五七八)春の日向遠征に際しては諸軍が上野館を出発して日向に向かった(同文書録)。賀来氏由緒書(同文書録)にも「大友屋形様御居城上野原」とあるが、上野館は江戸時代の編纂になる文書録にのみ登場する。ただしフロイスの「日本史」には、同一五年大友義統は薩摩軍の攻撃に備えて「上原と称するある場所に一城を築く」ことに決し、府内の学院にいたフランシスコ・カリオン師と修道士たちは「上原の新しい城に身を寄せた」とある。なお、下屋敷にあたる別墅は現顕徳けんとく町三丁目にあり(→府中、戦国時代府中絵図(大分市史)に「大友館」とみえる。

〔大友氏〕

藤原秀郷流。相模国大友郷(現神奈川県小田原市)を名字の地とする。初祖能直の父は近藤能成、母は同流波多野経家の娘。経家は大友四郎ともよばれた。母の姉の夫中原親能の猶子となるが、祖父経家に引取られ大友姓を称した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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