大平尾村
おおひらおむら
[現在地名]山城町大字平尾
東部山地より西流し木津川に入る鳴子川北岸に位置し、集落の一部は城山北麓にある。西は木津川、南は鳴子川の南岸域で北河原村、北は水田を隔てて小平尾村。集落東部を奈良街道、西部を大和街道が南北に貫通する。南平尾ともよばれる。なお小平尾を併せて平尾村とよぶ。
平尾の初見は「大乗院寺社雑事記」文明一七年(一四八五)一〇月一九日条で「平生」「ヒラウ」とある。なお「多聞院日記」永正四年(一五〇七)一〇月一三日条には「平尾」とみえる。古代は蟹幡郷(和名抄)の南端であったと思われ、中世は古河庄の地。
貞享元年(一六八四)の平尾村絵図(山城町教育委員会蔵)によれば、鳴子川は砂川で、低地に入って天井川を形成し、木津川への流入口では田地より川床まで五間の高さがあった。
大平尾村
おおびらおむら
[現在地名]松阪市大平尾町
坂内川が当村を貫流し、町平尾村・猟師村を経て伊勢湾に注ぐ。中世は町平尾村・猟師村とともに伊勢神宮領平生御厨の地。文禄検地帳写(徳川林政史蔵)に「大平生村」と記される。村内に屋敷が一一(うち、あき屋敷が三)、田方が一二〇石余、畑(屋敷を含む)方が二三四石、計三五四石余(三一町九反余)であり、一石に満たない茶高、余米の三七石余を含めれば、三九二石余となる。
大平尾村
おびらおむら
[現在地名]奈良市大平尾町
誓多林村東方、忍辱山村の南方にある。鎌倉中期の簡要類聚鈔(京都大学蔵一乗院文書)に大平尾庄とある。白砂川南岸の標高約三八〇メートルの所に大平尾城があり、古市氏の番城であったと伝える。
慶長郷帳の村高二六五・六九九石。幕府領(代官大久保長安)から元和五年(一六一九)津藩(藤堂高虎)領となる。寛文九年(一六六九)久居藩(藤堂高通)領となり、廃藩置県に及んだ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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