小平尾村(読み)おびらおむら

日本歴史地名大系 「小平尾村」の解説

小平尾村
おびらおむら

[現在地名]山城町大字平尾ひらお

東部山地より西流し、低地で西北進して木津きづ川に注ぐ不動ふどう川南岸付近に位置する。西は木津川、南は水田を隔てて大平尾おおひらお村。集落東部を奈良街道が、西端を大和街道が南北に貫通する。北平尾ともよばれる。なお大平尾村を併せて平尾村とよぶ。

中世は古河ふるかわ庄として推移したとみられる。古河庄は建長五年(一二五三)の近衛家所領目録(近衛家文書)に「冷泉宮領内山城国古河庄」とみえる。文永七年(一二七〇)には当荘と光明山こうみようせん寺との間で境相論が起こり、同年七月二六日付の後嵯峨上皇院宣案(東南院文書)は「任永久政所下文、於四至内者、可為光明山寺領、於田畠者、任建久検注帳」と記す。嘉吉元年(一四四一)の「興福寺官務牒疏」は小平尾村にある「和支夫伎売神」を「在同郡(相楽郡)古川荘平尾岡上」としていることから、この地に比定される。現在も和伎わき社の北に小字東古川ひがしふるかわ・中古川・西古川の地名が残る。


小平尾村
おびろうむら

[現在地名]広神村小平尾

和田わだ川中流域にある。下流から小平尾・兎畑うさぎばたけ越又こしまた外山そでやま滝之又たきのまたの集落がある。天文二〇年(一五五一)正月一八日の長尾政景感状(別本歴代古案)によると、上杉謙信との争いに「小平尾小屋中」が加勢している。正保国絵図に「尾平村」とあり、高九三石余。天和三年郷帳では高一八二石六斗余、ほかに同所新田三二石四斗余がある。延享三年(一七四六)の村明細帳(宮家文書)では田一八町九反余、うち滝之又に二町二反余、越又に一町二反余。畑は本村三町七反余・滝之又九反余・越又九畝余。青苧畑が一反余ある。同所新田は田二町六反余・畑二反余。


小平尾村
こびらおむら

[現在地名]美原町小平尾・さつき野西のにし一丁目

羽曳野はびきの丘陵西斜面から東除ひがしよけ左岸にかけて開けた村で、丹南郡に属し、北は多治井たじい村および河原城かわはらじよう(現羽曳野市)。文禄検地高は四八五石余、反別四二町四反余(文久二年「村明細帳」脇田家文書)正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高四八五石余、ほかに山年貢高一石五斗。元和九年(一六二三)大坂定番高木正次領となり、宝暦八年(一七五八)幕府領になるまで丹南藩高木領。明和元年(一七六四)幕府代官による新田検地で三〇石余(反別五町五反余)が増加し五一六石余となる(同九年「村明細帳」山田家文書)。以後寛政二年(一七九〇)までの変遷は多治井村に同じ。同年より幕府領(同一〇年―天保一〇年高槻藩預地)となり幕末に至る(天保一四年「村明細帳」脇田家文書ほか)


小平尾村
こびらおむら

[現在地名]生駒市小平尾町

生駒丘陵東方、乙田おとだ村とは竜田たつた川を隔てた西部に立地。慶長郷帳の村高七〇〇石。江戸時代の初め幕府領(代官大久保長安)、元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となり、同藩の二割半無地高増政策で村高は八七五・一六二石となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android