北河原村(読み)きたがわらむら

日本歴史地名大系 「北河原村」の解説

北河原村
きたがわらむら

[現在地名]行田市北河原

利根川支流ふく川の南岸に位置し、東は酒巻さかまき村、南は南河原みなみかわら(現南河原村)。古代は幡羅はら郡に属したともいう(風土記稿)古代末期には私市党河原氏の所領で、兄の河原高直が南河原を領し、弟忠家(あるいは盛直)が北河原を領したと伝えられるが、その頃から南北に分けて称されていたかは不詳(風土記稿)。しかし、「長楽寺永禄日記」永禄八年(一五六五)九月二一日の記事には「北河原」とあるから、中世末期には南・北の呼称が成立していたとみられる。

寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、幕府領の役高は九六六石余。


北河原村
きたがわらむら

[現在地名]伊丹市北河原・北伊丹きたいたみ二丁目・北本町きたほんまち三丁目

伊丹郷町の北側、猪名いな川と駄六だろく川に挟まれた低湿地にある。北川原村とも(延宝五年「巡見絵図」篠木家蔵ほか)。慶長国絵図に村名がみえ、元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では天津北河原あまつきたがわら村とする。正保国絵図(京都府立総合資料館蔵)は「天津ノ内北河原村」「天津村」と天津村を本郷のように記載するが、正保郷帳は天津村を枝郷とする。


北河原村
きたがわらむら

[現在地名]松前町北川原きたがわら

現松前町の北西、重信しげのぶ川河口に近く、南岸沿いに開かれた村。東は西高柳にしたかやなぎ村・庄之内しようのうち村、南は西古泉にしこいずみ村に接する。村内小字にきしうえ大割おおわり南開みなみひらき西開にしびらき・北開など開発を示す地名がある。「予陽河野家譜」に元亀三年(一五七二)八月、中国軍八千余騎が来襲上陸して中川原・大間だいまに陣したところを大野直昌・土居通利・井門右衛門尉父子らの伊予軍が打ち破り、北河原まで追討したという記事がある。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の伊予郡の項に「北河原村 小川有」、高五四八石四斗四升四合、うち田五〇七石四升二合、畠四一石四斗二合とあるが、天保郷帳(一八三四)では村高八六八石九斗二升一合とあって、三二〇石の増高を示している。


北河原村
きたがわらむら

[現在地名]青谷町北河原

勝部かちべ川の西岸山麓、亀尻かめじり村枝郷川積かわつみ(河詰)の南に位置する。南は鳴滝なるたき村。拝領高は三六八石余、本免は六ツ二分。「因幡志」では家数三六。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高四〇〇石余、竈数三二。文化一三年(一八一六)の洪水では当村津出道のうち長さ二〇間・横二間半が流失、長さ四間・横二間半が切込む被害となった。万延二年(一八六一)異国船渡来の折に青屋あおや御蔵の蔵米を大坪おおつぼ村へ移すための駆付民夫八人の徴用が割当てられた。


北河原村
きたがわらむら

[現在地名]山城町大字北河原

東部山地から西流する鳴子なるこ川が低地に入ったその南岸一帯に位置する。南は椿井つばい村、北は鳴子川を隔てて大平尾おおひらお村、西は木津きづ川。集落東部を奈良街道、西端を大和街道が南北に通る。「北川原」とも記し、椿井村の枝郷として成立した。こま村八村の一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android