日本大百科全書(ニッポニカ) 「大暦十才子」の意味・わかりやすい解説
大暦十才子
たいれきじっさいし
中国、中唐初期の詩人たちに対する文学史上の呼称。『新唐書(しんとうじょ)』「文芸伝」によれば、盧綸(ろりん)、吉中孚(きっちゅうふ)、韓翃(かんこう)、銭起(せんき)、司空曙(しくうしょ)、苗発(びょうはつ)、崔峒(さいどう)、耿湋(こうい)、夏侯審(かこうしん)、李端(りたん)の10人をよぶが、ほかに郎士元(ろうしげん)、李益(りえき)、李嘉祐(りかゆう)、皇甫曽(こうほそう)および冷朝陽(れいちょうよう)らを加える説もある。唐王朝が政治的経済的また文化的に隆盛を誇った盛唐期も、その晩期は安史の乱(755~763)によって、一挙に衰運をたどった。文学史上の中唐は普通、大暦年間(766~779)に始まるとされるが、真に中唐期的特色が発揮されるのは元和(げんな)(806~820)以後であり、大暦年間は衰運から中興に至る過渡期に属する。上述の詩人たちはその困難な大暦期を中心に活躍して、名声を得たので「十才子」とよばれる。唐人選唐詩の『中興間気集(ちゅうこうかんきしゅう)』が、彼らの代表銭起と郎士元を、それぞれ上巻と下巻の筆頭詩人とするのは、十分に理由がある。一概には論ぜられないが、彼らは近体詩に優れ、自然詩に新境地をみせた。悲憤慷慨(こうがい)の情をときにもらすのは、大乱の辛酸をなめ、官界でも不遇であったゆえであろう。
[伊藤正文]