大洲城下(読み)おおずじようか

日本歴史地名大系 「大洲城下」の解説

大洲城下
おおずじようか

[現在地名]大洲市大洲

ひじ川右岸の小丘を利用してつくられた大洲城を中心とする城下町。現大洲市のほぼ中心市街地にあたる。もとの喜多きた郡の中心部にあたり、郡内を貫流する肱川本流が、山間峡谷から平坦な大洲盆地に入って緩流となり、上下する川舟の好適な河港が古くから形成され、大津おおつとよばれていた。

〔城下の形成〕

元弘元年(一三三一)伊予国の守護職となって入部した宇都宮豊房が、喜多郡地域支配の拠点として、ここに地蔵じぞうだけ城を築いた(大洲旧記)。戦国期に入ると、城では攻防が繰り返されたが、天正一三年(一五八五)閏八月、小早川隆景の率いる伊予平定軍により、開城させられた(→大洲市

近世初期、大津最初の城主となったのは、宇和・喜多両郡一六万石に封ぜられた戸田勝隆であった。戸田氏の治封七年、その後文禄三年(一五九四)から一〇ヵ月間池田高祐、同四年から一三ヵ年間藤堂高虎、慶長一四年(一六〇九)から脇坂安治・安元二代八年間、元和三年(一六一七)から明治維新まで二五二年間、加藤氏一三代が相次いで城主となった。各城主の支配領域・石高は、藤堂氏が喜多・宇和両郡で七万石、脇坂氏が喜多・浮穴うけな風早かざはやの三郡で五万三千石余、加藤氏が喜多・浮穴・伊予・風早の四郡で六万石(うち一万石は元和九年以降新谷藩領)であり、おもな領域は現在の大洲市・喜多郡であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大洲城下の言及

【大洲[市]】より

…陽明学の大家中江藤樹の邸宅跡,臥竜山荘などがある。【篠原 重則】
[大洲城下]
 伊予国の城下町。近世初期までは大津と書かれ,明暦・万治年間(1655‐61)に大洲と改められた。…

※「大洲城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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