塩屋町(読み)しおやまち

日本歴史地名大系 「塩屋町」の解説

塩屋町
しおやまち

[現在地名]熊本市新町二丁目

新二丁目筋と新三丁目筋の間を東西に走る通りの東側地区の両側の町人町筋、およびその通りから南の坪井つぼい川まで広がる武家屋敷一帯と、通りの北側の商人町のすぐ北側背後に並ぶ武家屋敷を称する。東と南は坪井川の内側につくられた土居で囲まれ、北は古城堀端こじようほりばた町に接する。坪井川が古城前を南流して新町方面に右折する河道の内側で、東は洗馬せんば橋、南は新三丁目橋(現明八橋)で対岸につながる。この両橋際には勢溜と番所が置かれた。武家屋敷・町人町形成の時期は「続撰清正記」や新町の形成などから推定すると、慶長一〇年(一六〇五)前後と思われる。寛永九年(一六三二)細川忠利の入国の時には、家臣二五名が塩屋町に宿割りしている(「肥後御入国宿割帳」県立図書館蔵)。町名の由来は、辛島道珠屋敷内に鹹味のある井戸があったところから起こったといわれ、道珠の号塩井もこの井戸によると伝える。「続撰清正記」によれば、慶長一四年頃清正は八幡やはたのお国という女歌舞伎役者を熊本に呼寄せ、「塩屋町三町めの武者溜り」で勧進能の後歌舞伎を催したとある。熊本では初めての歌舞伎で、貴賤上下の老若男女が市をなして見物したという。「番太日記」に、長崎の線香に代わって八代の線香が熊本中に大繁盛し、「夫より熊本段々せん香や出来りて塩屋町に沢屋・古手や・福島屋三軒出来ル、八代せん香めてになる」とある。

江戸時代の各種絵図をみると、商人町は洗馬橋の北側の勢溜北側(現熊本中央郵便局)から新二丁目方面に通ずる道路の南北両側に並び、一般的にはこの通りを塩屋町と称した。武家屋敷は町人町を北東南の三方から取囲むように配置され、南と東は坪井川の土居に、北は古城堀に接する。これらの屋敷は湾曲して坪井川に沿う道、塩屋町筋から南の坪井川へ抜ける二本の道、古城堀端町から南の塩屋町へ抜ける道の両側に沿って配置された。塩屋町筋と南の坪井川とを結ぶ二本の道は、東の坪井川と西の新三丁目の間に三つの区画を形成する。最も東寄りの区画地はさらに東西の道で二分される。この二区画の東側、坪井川に沿う道と西へ流れを変える坪井川沿いの屋敷地をあわせ、明治期には塩屋町裏三番丁と称した。塩屋町から南の坪井川へ抜ける道のうち東側の道は、同時期に塩屋町裏壱番丁とよばれ、その西の新三丁目との間の道は塩屋町裏二番丁よばれた。

塩屋町
しおやまち

[現在地名]金沢市瓢箪町ひようたんまち

宗江寺そうこうじ町の東に位置し、東は清水しみず町、南は外総構堀を隔てて彦三ひこそ町、北は堀川亀淵ほりかわかめぶち町。両側町で本町。町名は塩問屋があったことにちなむと伝え(金沢古蹟志)、寛永年間(一六二四―四四)に城の大手口より当地に移動したといわれる(亀の尾の記)。現やまうえ町にある光覚こうかく寺の由緒(貞享二年寺社由緒書上)に加賀藩二代藩主前田利長の時代(慶長三―一〇年)に、「塩屋町亀淵」において寺領拝領とあり、亀淵町はかつて当町域に含まれていた。

塩屋町
しおやまち

[現在地名]八代市塩屋町・西松江城にしまつえじよう町・ほん町四丁目

出来でき町・しん町・中の州なかのす北の州きたのす新屋敷しんやしきからなり、城の西から南西に位置し、北および西は干潟で、海辺には潮塘がめぐらされている。東は荒神こうじん丁、南は加子かこ町に接している。塩田が設けられていたので町名となった。若宮八幡宮福寿ふくじゆ(現廃寺)・真宗西派照光しようこう(現浄土真宗本願寺派)・真宗東派光徳こうとく寺末慈恩じおん(現真宗大谷派)塩竈しおがま明神・観音堂などがあり、南西はまえ川河口で、ここには塩屋番所が置かれている。

塩屋町
しおやちよう

[現在地名]中区大手おおて町二丁目・紙屋かみや町二丁目

紙屋町の南に続く両側町で、東はふくろ町、西は白神しらかみ二―三丁目。白神組に属した。南北に運河の西堂せいとう川が流れ、舟運の便がよかった。

元和五年広島城下絵図に「しほや町」として町間数二町八間を記す。寛永二年広島町数家数改め(済美録)では本家三六軒・借家七四軒。承応の切絵図には家数六五、間数合計二七九間八寸五分とあり、うち塩屋一〇軒、米屋・油屋各二軒など。

塩屋町
しおやちよう

[現在地名]兵庫区本町ほんまち二丁目・西仲町にしなかまち

細辻子ほそずし町の北に接する岡方の町で、地方一八町の一。兵庫北関入船納帳には「塩や」に居住した船頭として衛門九郎の名がみえる。慶長七年(一六〇二)の兵庫屋地子帳(兵庫岡方文書)に町名がみえ、屋敷地一八筆。元禄九年(一六九六)の兵庫津絵図井家蔵)には小物屋こものや町・北中きたなか町境で西に入る路地に町名が記入されているが、明和六年(一七六九)の兵庫津絵図(鷲尾家蔵)では、路地西口で直交する山陽道の一筋西の南北通りに記されており、通りにも広がったと考えられる。

塩屋町
しおやちよう

下京区綾小路通麩屋町西入

東西に通る綾小路あやこうじ(旧綾小路)を挟む両側町。

平安京の条坊では町の北側は左京五条四坊四保一六町の南、町の南側は同一五町の北にあたり、平安時代中期以降は綾小路富小路とみのこうじの地。中世には商工業地域の一翼を担ったようで、応永三二年(一四二五)・三三年の酒屋交名(北野天満宮史料)に「綾小路万里少路北東頬 左衛門七郎在判」と記され、酒屋の営業が認められる。

塩屋町
しおやまち

[現在地名]大洲市大洲 志保町しほまち

大洲城下町の東端にあり、ひじ川と直角の南北の通り、長さ一町余。慶長一〇年(一六〇五)七月二八日、藤堂高虎の命をうけた部下の田中林斎が、大津城下に塩売買特許の塩屋町を設けた。同年の城甲文書に、

<資料は省略されています>

とある。城下町についての初見の記録である。寛永二〇年(一六四三)の大津惣町中之絵図(大洲町役場旧蔵)には、通りの東側に一五軒、西側に二軒の町家が建ち並び、建設当初から城下町の中心街となっていた。

塩屋町
しおやまち

[現在地名]大津市中央ちゆうおう二丁目・浜町はままち

米屋こめや町の東にある浜町通の両側町で、当町の東にも米屋町の町屋敷が続く。江戸初期には塩屋が多く居住していたが、漸次移転したという。元禄八年町絵図に町名がみえ、家持一〇軒のほか番屋一軒、絵図の裏に町人の連印があり、うち四名は家屋敷を二軒以上所有していることが知られる。慶長一六年(一六一一)当時米仲の番所(米会所)が置かれており、四組に分けた仲組が毎月一組二〇人ずつ順番に詰めることにしたという(「仲職成立次第」村上文書)

塩屋町
しおやまち

[現在地名]亀岡市塩屋町

南北の町である矢田町やだまちの中ほどから西の紺屋町こんやまちへ出る東西長さ一四〇間の町。天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」では戸数五〇。町場は下矢田村分内で、下矢田村住民を移住させ、その間に商家を住まわせた。

東端矢田町の所で少し南にずらせて東方の呉服町ごふくまちへ続く。

塩屋町
しおやちよう

中京区河原町通蛸薬師下ル

河原町かわらまち通を挟む両側町。町の北で蛸薬師たこやくし通が河原町通と交差する。

町名は、筆描図系の寛永以後万治以前京都全図に「塩屋町」とみえる。木版図系では、寛永一八年(一六四一)以前平安城町並図は当該地域に「ならや丁」の南半とあり、以降、元禄九年(一六九六)京大絵図まで変化はなく、正徳・享保間京大絵図及び寛保初京大絵図は「下大坂丁」とし、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」で「塩屋町」となり、以降変化はない。

塩屋町
しおやちよう

中京区三条通西洞院西入

東西に通る三条さんじよう(旧三条大路)を挟む両側町。東側を西洞院にしのとういん(旧西洞院大路)が通る。

平安京の条坊では、町の南側は左京四条二坊四保一八町の北、北側は左京三条二坊三保一三町南の地。平安中期以降は三条西洞院大路の西にあたる。藤原有佐邸があったともいう(二中歴)

応永三二年(一四二五)一一月一〇日付酒屋交名(北野天満宮史料)には、「三条油小路東南頬 讃岐 円」の名がみえる。

塩屋町
しおやちよう

[現在地名]萩市大字塩屋町

細工さいく町の東に続く町人町。東は米屋こめや町。

町名は当地に塩屋氏という者が居住し町年寄になったことに由来するという(萩諸町之旧記草案、萩市中覚書)。宝暦元年(一七五一)の萩大絵図別冊文書によれば町の長さ二四七間余、家数一〇八、うち本軒八、店借九七、貸屋三、ほかに蔵が一二ヵ所あった。

塩屋町
しおやちよう

下京区河原町通下珠数屋町西入一筋目下ル

河原町かわらまち下珠数屋町しもじゆずやまち西入一筋目を挟む両側町。北側は下珠数屋町通にも面する。

平安京の条坊では左京七条四坊三保一二町の地。

町の形成は、溜池町などと同じく寛永一八年(一六四一)以降の市街地化によるものと思われる。渉成園建設以前は、高瀬川が町内を南北に通っていたようである。

塩屋町
しおやちよう

下京区黒門通綾小路下ル

南北に通る黒門くろもん通を挟む両側町。

平安京の条坊では左京五条二坊一保二町の地。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「塩屋町」とみえる。「坊目誌」に「慶長以来雑魚屋町と呼び、海産物魚類干物の市場にして所謂西納屋の内也」とある。また、寛文二年(一六六二)新板平安城東西南北町並洛外之図を初見として宝暦年間(一七五一―六四)に至る木版絵図類には「あやノ町」とあり、両者が併用されたらしい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報