日本歴史地名大系 「大田原城跡」の解説 大田原城跡おおたわらじようあと 栃木県:大田原市大田原城下大田原城跡[現在地名]大田原市城山二丁目南東へ流れる蛇尾(さび)川右岸丘陵頂と麓の平地にある。比高約二五メートル。複郭式の平山城で、城郭は東西三〇〇メートル余・南北四五〇メートル、面積六・九ヘクタール。大田原藩大田原氏の本城で前室(まえむろ)城・龍体(りゆうたい)城ともいう。城の大手は南西の平地にあり、東側は蛇尾川岸の断崖をそのまま利用する。本丸を中心に南へ二の丸・三の丸が並び、北に北郭が二郭(北城)、西麓に西郭・馬場がある。いずれも平地で南・西・北一帯に土塁がめぐらされ、重臣の屋敷が土塁内にもあった。江戸初期北端の崖を切通し、奥州街道が開通した。近世には三の丸に城主の住居、本丸には政庁が置かれ、そのほか弾薬庫・作事小屋・講武所・藩校時習(じしゆう)館、幕府領の米一千石を保管する千石蔵や諸門があった。家中侍屋敷は城の西部から南にかけて配されていた(年不詳「大田原城古図」阿久津真澄蔵)。築城者は那須氏の重臣で那須七騎の一の大田原資清で、天文一二年(一五四三)または一四年に北方町島の水口(まちじまのみなくち)館から移ったという。大田原氏は同家の家譜(東大史料編纂所蔵)などによれば、武蔵七党の一、丹党に属し、阿保(あぼ)(現埼玉県児玉郡神川村)に住して阿保を名乗っていたが、明応三年(一四九四)康清のとき那須郡大俵(おおたわら)に移り大俵(大田原)氏を名乗ることになったという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by