大竹 貫一
オオタケ カンイチ
- 肩書
- 衆院議員(第一議員倶楽部)
- 生年月日
- 安政7年3月12日(1860年)
- 出生地
- 新潟県
- 学歴
- 新潟英語学校卒
- 経歴
- 明治19年新潟県議となり3期務めた。その間20年に三大事件建白運動に参加、保安条例により東京追放。27年以来衆院議員に当選16回。大日本協会、進歩党、同志倶楽部、憲政会、革新倶楽部、革新党などを経て、昭和7年国民同盟に転じた。この間、遼東半島還付に反対の国論を起こし、日露戦争には主戦論を唱え、講和反対の日比谷焼き打ち事件の首謀者として起訴され、日韓合併の主張者など対外硬派として知られた。昭和13年貴院議員となったが翌年辞退して引退した。
- 没年月日
- 昭和19年9月22日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
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大竹 貫一
オオタケ カンイチ
明治〜昭和期の政治家 衆院議員(第一議員倶楽部)。
- 生年
- 安政7年3月12日(1860年)
- 没年
- 昭和19(1944)年9月22日
- 出生地
- 新潟県
- 学歴〔年〕
- 新潟英語学校卒
- 経歴
- 明治19年新潟県議となり3期務めた。その間20年に三大事件建白運動に参加、保安条例により東京追放。27年以来衆院議員に当選16回。大日本協会、進歩党、同志倶楽部、憲政会、革新倶楽部、革新党などを経て、昭和7年国民同盟に転じた。この間、遼東半島還付に反対の国論を起こし、日露戦争には主戦論を唱え、講和反対の日比谷焼き打ち事件の首謀者として起訴され、日韓合併の主張者など対外硬派として知られた。昭和13年貴院議員となったが翌年辞退して引退した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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大竹貫一 おおたけ-かんいち
1860-1944 明治-昭和時代前期の政治家。
安政7年3月12日生まれ。明治27年衆議院議員(当選16回)。国権主義を主張し,国民党,革新党などをへて,昭和7年国民同盟に属した。日露戦争では対露強硬論をとなえ,講和反対の日比谷国民大会を主催。大正時代には普選運動にとりくんだ。昭和19年9月22日死去。85歳。越後(えちご)(新潟県)出身。新潟英語学校卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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大竹 貫一 (おおたけ かんいち)
生年月日:1860年3月12日
明治時代-昭和時代の政党政治家。進歩党;衆議院議員
1944年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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