保安条例(読み)ホアンジョウレイ

デジタル大辞泉 「保安条例」の意味・読み・例文・類語

ほあん‐じょうれい〔‐デウレイ〕【保安条例】

明治20年(1887)政府自由民権運動弾圧するために発した法令。これにより、尾崎行雄中江兆民ら民権派570人が東京から追放された。同31年に廃止

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精選版 日本国語大辞典 「保安条例」の意味・読み・例文・類語

ほあん‐じょうれい‥デウレイ【保安条例】

  1. 〘 名詞 〙 明治二〇年(一八八七伊藤内閣が公布施行した自由民権運動を弾圧するための条例。言論集会秘密結社の禁止、出版の取締り、また治安を妨害するおそれのある者に皇居の三里(約一二キロメートル)以内からの退去を命ずることなどを規定した。同三一年廃止。

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改訂新版 世界大百科事典 「保安条例」の意味・わかりやすい解説

保安条例 (ほあんじょうれい)

1887年12月25日公布,即日施行の民権運動弾圧法規。7ヵ条からなる。内乱陰謀・教唆したり治安に妨害ありと認められる者を,3年間以内,皇居または行在所(あんざいしよ)の3里外に追放できるとした第4条,および秘密結社・秘密集会・秘密出版を厳禁した第1,3条が中心であるが,ほかに警官に集会禁止権を与えたり(第2条),内閣が必要と認めれば一定地方に期限を定め,集会の許可制,印刷物の事前検閲制,銃刀火薬類の携帯運搬販売禁止,旅人の出入検査制(旅券制)を施行できる(第5条)という準戒厳令の内容も盛られている。この条例は直接には,同年後半期,条約改正,地租軽減,言論集会の自由を要求する三大事件建白運動往年の自由民権運動の興隆を思わせるほどに燃え上がり,全国から建白書を提出する有志代表者が続々上京し,政府が追いつめられたことへの対応策として発布された。施行直後,星亨中島信行,尾崎行雄,中江兆民ら570名に退去命令が出,ひとりひとりに尾行がついた。大部分は3日以内に東京から退去したが,片岡健吉ら11名は拒否して投獄されている。またそもそもこの運動に火をつけたのは,井上馨外相の条約改正案に対するボアソナードの反対意見書や谷干城農商相の反対上奏文,あるいは《西哲夢物語》と題された政府の憲法草案などの秘密出版であった。これにより政府が極秘裏に進めていた外交・政治の根本方針が暴露され,民権運動が再燃したのである。政府はこれを秘密出版事件として同年末から摘発しはじめ,星亨,井上角五郎をはじめ井上敬三郎,伊藤仁太郎(痴遊)ら多数の壮士を拘引・処罰した。このようにこの条例の適用は2局面にみられる。これにより三大事件建白運動は活動の中心舞台と多数の活動家を失い鎮静を余儀なくされた。この条例はまれなる悪法といわれ,民権派が後年の帝国議会で追及に追及を重ねた結果,98年6月ようやく廃止された。
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百科事典マイペディア 「保安条例」の意味・わかりやすい解説

保安条例【ほあんじょうれい】

大日本帝国憲法制定の直前,下火になっていた自由民権運動が三大事件建白運動などを機に再び高揚してきたため,これを取り締まる目的で制定,即日施行された勅令(1887年)。屋外集会・結社・出版などに制限を加え,特に治安を害するおそれのある者を皇居,行在所(あんざいしょ)の3里外に退去させる権限を警視総監に与えた。星亨尾崎行雄片岡健吉中江兆民ら570名が公布後数日のうちに東京から追放された。のちの帝国議会で民権派が追及を重ね,1898年廃止となった。
→関連項目伊藤博文内閣清浦奎吾言論・出版・集会・結社等臨時取締法幸徳秋水大同団結運動治安警察法三島通庸

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「保安条例」の意味・わかりやすい解説

保安条例
ほあんじょうれい

明治時代、反政府言動を弾圧した法律。第一次伊藤博文(ひろぶみ)内閣の井上馨(かおる)外相の下で進められた条約改正交渉は、外国人犯罪裁判に外国人裁判官を採用するなどの条件で1887年(明治20)にいちおうの妥結をみた。しかしこれは日本の法権を侵害する屈辱的なものであるとして、自由民権派の政府攻撃が高まり、言論集会の自由、地租軽減、外交挽回(ばんかい)(条約改正)を内容とする三大事件建白運動が展開された。倒閣運動へと激化するのを恐れた山県有朋(やまがたありとも)内相、三島通庸(みちつね)警視総監の下で、同年12月25日突如公布、即日施行されたのが本法である。全7条のうち、内乱陰謀や治安妨害のおそれある者を3年以内、皇居外三里の地へ退去せしめるとした第4条が主体である。26日から数日間に、星亨(とおる)、尾崎行雄(ゆきお)、片岡健吉、中江兆民(ちょうみん)ら民権派の論客570名に退去命令が出て、片岡ら抵抗者は投獄された。その後も発動されたが、98年6月廃止となった。

[松永昌三]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「保安条例」の意味・わかりやすい解説

保安条例
ほあんじょうれい

明治 20年勅令 67号。 1887年 12月 26日に公布された治安法規。第1次伊藤博文内閣の外相井上馨の条約改正交渉をきっかけに,大同団結運動,三大事件建白 (1887.10.) で高揚した自由民権運動の弾圧をねらったもので,内相山県有朋,警視総監三島通庸が突如公布し即日施行した。全文7ヵ条。 (1) 秘密結社や集会の禁止,(2) 屋外での集会に対する警察官の任意的解散権,(3) 一定地域での全般的な集会禁止,旅行,移動の自由を制限する権限を警察官に与えること,(4) 内乱陰謀,治安妨害に供される出版用機器の全般的没収,(5) 検閲,(6) 内乱を陰謀,教唆し,または治安を妨害するおそれのある者の皇居ないしは行在所外3里 (11.8km) の地への退去を規定した。このため同 26日夜から 28日までに星亨尾崎行雄中江兆民ら 451人が追放された。 98年6月 25日に廃止された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「保安条例」の解説

保安条例
ほあんじょうれい

明治中期における反政府活動の取締り法令。三大事件建白運動が高まり,自由民権派などの地方有志が続々上京して政府に迫ると,第1次伊藤内閣の山県有朋(やまがたありとも)内相はこれに対処するため,1887年(明治20)12月25日,勅令第67号をもって保安条例を発布,即日施行した。全7条。秘密の結社・集会の禁止,警官の屋外集会禁止権,内乱陰謀・治安妨害の恐れある人物に対する皇居3里以内からの退去などを定めている。施行と同時に発動され,同月中に星亨(とおる)・片岡健吉・中江兆民(ちょうみん)・中島信行・尾崎行雄ら450余人が退去させられた。初期議会にはしばしば発動され,民党・吏党の壮士に退去命令が出された。民党側から再三廃止要求が出され,98年6月,第3次伊藤内閣のとき廃止された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「保安条例」の解説

保安条例
ほあんじょうれい

1887(明治20)年公布された反政府運動弾圧法規
井上馨の条約改正案反対を契機として,自由民権運動家を中心に言論の自由・地租軽減・外交の挽回を要求する三大事件建白運動が激化した。政府は,内相山県有朋,警視総監三島通庸 (みちつね) らが中心となり,これに対抗するため保安条例を公布し,秘密の結社・集会の禁止,内乱の陰謀・治安妨害の恐れある者の皇居外3里の地への退去を命じ,尾崎行雄・片岡健吉・星亨 (とおる) ・中江兆民ら570名を追放した。

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世界大百科事典(旧版)内の保安条例の言及

【構】より

…以後主家からの出奔は武士にとって容易なことではなくなった。近代に至って,追放刑の廃止,封建的身分制度の廃止により構の概念も消滅したが,1887年の保安条例は,内務大臣山県有朋が,民権家に対する〈江戸御構〉として構想した立法であった。【加藤 英明】。…

※「保安条例」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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